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スピッツ「日なたの窓に憧れて」は、幼い日の恋の曲だった説。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「日なたの窓に憧れて」について解釈していきたいと思います。

この曲は、めっちゃいい曲ですよね。とくに詞が美しくて、その完成度の高さにうっとりしてしまいます。

正直、書いてあることをそのまま受け止めるのが、この詞の正しい向き合い方だと思います。情報を何も足す必要がないし、もちろん何も引く必要もありません。こんな綺麗な曲を、無粋な解釈で濁したくはないのです。

しかしながら、私にもこの曲について、欲望があります。それは、この美しい曲に添えるような解釈をやってみたいという欲望です。ずっとそう思っていましたが、私の文章力と読解力が乏しいために、ずーっとこの曲の解釈が後回しになっていました。私が気後れするぐらいの眩しさを、この曲から感じていたのです。

でも今、この曲の解釈に取り掛かろうとしています。

はたして、今のこの私にこの詞を解釈することができるのでしょうか。

やってみたいと思います。


この詞は、ブログタイトルにもありますとおり、「幼い日の恋の曲」という解釈をしています。

そしてそれは、誰でもない、マサムネさんの恋です。

恋の相手というのは、たぶんですけど、「君と暮らせたら」「仲良し」「夏の魔物」にでてくる、年上の女の子です。

もしお時間がありましたら、この3曲の解釈も一緒にみていただけますと、よりくっきり詞の意味が見えてくると思います。

「君と暮らせたら」にて、15の頃の僕に「お前、まだあの人のこと好きなのかよ」と笑われたぐらいの、愚かなぐらいに恋に落ちていた頃の話です。

「仲良し」にて、「アナタたち、いつも仲良しでいいよね」って言われて、「いや本当はアナタのことが好きなんですよ」って言いたいけど言えず、ブルーになってた相手の、年上の女の子です。

「夏の魔物」に出てきた、あの暑い夏の日に出会い、美しさに心を奪われた、夏の魔物です。


この、年上の女の子は、少年の「僕」のことを、まるで相手にしていません。あくまでも「自分の妹の友達」としてしか、認識していないのです。

そして「僕」もまた彼女に、「自分の妹の友達」としてしか認識されていないことを、知っています。ゆえに、つらいのです。

「僕」の中では、彼女に対する想いがこんなに肥大してきているのに、彼女は「僕」のことを何とも思っていないのです。

なので、「日なたの窓に憧れて」は、「君に触れたい」ということと、「瞳の奥へ僕を沈めてくれ」つまり、自分の存在をちゃんと認識してほしいということを、願った詞となっているのです。

こういう背景があると、この詞のせつなさが、より際立ってくるんじゃないかなと思います。

順番に詞を眺めていきましょう。




君が世界だと気づいた日から 胸の大地は回り始めた

幼い頃の「僕」と、いつも一緒に遊んでいた友達の女の子。そして、彼女と遊ぶ時に何気なく顔を合わせていただけだった、彼女の姉。

ある時僕は、姉の自転車に二人乗りすることになった。折れそうな手でヨロヨロしながら、姉は自転車のペダルを踏んづけるようにこぎだした。一方で、荷台に乗せられた僕は、姉の身体につかまった。大人の身体になりつつあった姉の、柔らかい腰を、その腕に抱いたのです。

その瞬間、僕の全身を稲妻が貫いたような衝撃がありました。身体のなにかが、いっせいに開花したような感覚に襲われたのです。ただの友達の姉だったひとが、この瞬間からいきなり僕の世界の中心になったのです。

これが僕のはじめての恋であり、夏の魔物との出会いでした。同時に「君が世界だと気づいた日」だったのです。

「胸の大地は回り始めた」もまた、胸のドキドキのことを表しているのかなと。少年は、胸がドキドキしていることを自覚することはありません。恋をしたとき、はじめて自分の心臓がドキドキしていることに気が付くのです。心臓が歯車みたいに、ドキドキと音を立てて回り始めたように感じたのではないのでしょうか。



切ない空に浮かべていたのさ かげろうみたいな二人の姿を

「かげろうみたいな二人の姿」とは、現実ではありえない姿のことです。

この時点では僕は、姉にとっては「妹の友達」であり、挨拶する程度の人なのです。自転車に乗せてあげたのも、別に好きだからではなく、ただの親切心でしょう。

でも僕は、姉と恋人になりたいと願っています。姉のとなりで、姉とおしゃべりする人になりたいと願っています。そのむなしい願いが、「かげろうみたいな二人の姿」に現れているのだと思います。



すぐに

気絶しそうな想いから放たれて

「気絶しそうな想い」は、先ほどの、自転車で姉の腰に触れた時の感覚だと思います。ズカーンという衝撃だったでしょう。いや実際に感電したみたいに、物理的に気絶なんでしないでしょうけれども。まぁ、初恋をしたことのある人なら、この感覚、心あたりがありますよね。気になる異性に触れた時、ビビビッとくるやつです。



君に触れたい 君に触れたい 日なたの窓で

漂いながら 絡まりながら

それだけでいい 何もいらない 瞳の奥へ僕を沈めてくれ

「日なたの窓」とありますが、これもまた「夏の魔物」に関連しそうな部分があります。「古いアパートのベランダに立ち 僕を見下ろして少笑った なまぬるい風にたなびく白いシーツ」とあります。この古いアパートは、シーツを干すには適した日当たりなのです。この詞の「日なたの窓」もまた、彼女と彼女の姉が住む、古いアパートの窓のことを言っているのだと思います。

サビは、詞の中でももっとも主張したいことをいう部分ですが、前述したとおり「君に触れたい」と、「瞳の奥へ僕を沈めてくれ」が、もっとも僕が言いたいことだったのだと思います。なぜならそれは、かなわない恋だからです。



日なたの窓に憧れてたんだ 哀しい恋のうたに揺られて

落書きだらけの夢を見るのさ 風のノイズで削られていくよ

「哀しい恋のうたに揺られて」もまた、僕の、姉に対する恋が、かなわぬ恋であることの裏付けになっています。かなわない恋だからこそ、哀しい恋のうたが響くのです。

「落書きだらけの夢」とは、エロい夢のことだと思います。大人の身体になりつつあった姉の身体に触れたことで始まった恋ですから、僕はこの時のことを繰り返し妄想しています。もちろん、夢の中にもでてきました。夢の中では「落書きだらけ」というからには、もっと大胆な恰好をしていたのでしょう。全裸になった姉が、僕のことを抱きしめるぐらいのことを、してきたかもしれません。

でもそんな妄想も、「風のノイズで削られていく」そうです。これは、直前の内容をなぞるような仕組みになっています。「日なたの窓に憧れてた」→「でも悲しい恋だ」というのと同じで、「落書きだらけの夢をみた」→「でも風のノイズで削られた」という意味になります。風のノイズで削られるというのは、落書きだらけの夢にとっては、よくない事なのです。

鮮明な裸の夢を見たって、本人と話もできないようでは、何の意味もないのです。「でも、彼女とは何の関係も築けていないよね」という、僕の内なる声が、僕を興ざめさせます。僕のなかで、いくら稲妻が身体を貫こうが、胸の大地が回り始めようが、現実では何の波風もたてられないのです。何の意味もないのです。



いつも

僕の欲しいのは 優しい嘘じゃなくて

僕は、思い切って姉に要求したのだと思います。そういう表現が「夏の魔物」にもあります。その結果「僕の呪文もきかなかった」だそうです。相手にされなかったんです。軽く、あしらわれたのだと思います。

このほか、「仲良し」では、「いつも仲良しでいいよね」だなんて、僕と自分の妹の仲をからかうようなことまで言ってます。この発言はどのタイミングでなのかはわかりませんが、もし僕の好意が自分に向けられていると気が付いた後の話だったとしたら、この姉はかなり大人びています。

僕が欲しい言葉を、徹底的に言ってくれない姉。これは、つらいですね。



メリーゴーランド メリーゴーランド 二人のメリーゴーランド

メリーゴーランド メリーゴーランド 二人のメリーゴーランド

ずっと このまま ずっと ずっと

ここです。メリーゴーランドとは、馬に似せた遊具を指しますが、その遊具で遊んでいる様子が、「夏の魔物」でいうところの、姉の自転車の荷台に乗せられた時のことを彷彿とさせます。「ずっと このまま ずっと ずっと」と願っているあたり、自転車の荷台に乗せられ、姉の背中に触れていた時のことを、何度も反芻しているんじゃないかなと思います。

もしくは、本当にメリーゴーランドに乗った時の話なのかもしれません。この遊具で遊ぶのは、主に子供です。子供の僕が、君の家族と遊園地に行って、姉と一緒にメリーゴーランドに乗ることになった。その時の思い出なのかもしれません。

どちらにせよ、大人になるにつれて、この姉とは距離ができてしまいます。子供の時の、家族でメリーゴーランドに乗った時が一番姉と距離が近かったのに、僕が姉への恋心に目覚めたにも関わらず、それから距離が近くなるどころか、どんどん開いていってしまうのです。そしてついに「君と暮らせたら」にて、15の隙だらけの僕にすら「お前、まだあの姉のことを好きなのかよ」と笑われるまでに、なってしまうのです。



という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?

正直この八百屋さんが解釈したスピッツの詞の中には、「あーこれ、解釈しないほうが詞の雰囲気楽しめたなぁ……余計なことしたなぁ」なんて後悔する曲もあったりします。解釈は、詞の可能性を拡げるどころか、逆に狭めてしまう結果になることもあるのです。

この曲については、そうなってほしくなくて、限界以上のパワーを引き出そうと頑張りました。だからといって、たかが八百屋さんなので、この詞の良さをあますところなく最大限解釈できたかと言われると、絶対そんなこともないと思うのですが、ただ頑張ったということだけは言い残しておこうと思います。限界以上のパワーを引き出してまで、頑張ろうとさせてくれた価値が、この詞にはあると、私は信じているのです。

願わくは、このブログを読んでくださっているアナタにも、この詞の良さと、私のこの思いが、伝わりますよう。



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