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風待くだもの店~その11~



いつから、幻想の世界に迷い込んでいたのだろう?

思えば、風待さんと話をしていたあたりから、どことなく、夢の中にいるような、そんな心地よさがしていた。

あの梅ジュースを飲んだことで、幻想の世界に入り込んだともいえるし、風待さんと話をしている最中に、催眠術をかけられたようにも思う。境目があいまいで、はっきりしない。もしかすると、風待くだもの店自体が、幻想の産物なんじゃないか。

そんなことを、少年は茫然と考えた。

ひまわりの向こう側では、突然現れた白いワンピースの美少女がこちらを見つめて、ふっと笑っている。

笑っていないときの顔は、この年代の少女にありがちな、どこか冷たさが漂う表情だった。

顔の輪郭は風待さんと似ている、とは思ったけれど、表情が違う。

風待さんが纏っている、穏やかさとは違う。

どこか幼くて、悪戯っぽい笑顔だった。


理由は、すぐにわかった。

彼女は、風待さんが作ってくれた、タルトケーキを掴んでいた。

少年のほうを見つめながら、タルトの先の部分に口を近づけて、小さな唇で噛んだ。


「それは、ぼくの……! 千円の……!」


少年は、とっさに、少女めがけて、駆け出した。

同時に、彼女も、少年から逃げだした。

ひまわりは、ひとが作ったものではないようで、規則正しく並んでいるわけでなかった。

そのため、太いひまわりの茎が邪魔して、なかなか前に進めない。

一方、少女のほうは、このひまわり畑で遊ぶことに慣れているのか、スイスイ進んでいる。

あっという間に、距離が開いてしまった。

ひまわり畑を駆け抜けた、少女の長い髪の香りだけが、そこに残されている。


少女は、少年との距離が開いたことを確認して、また、見せつけるようにタルトをかじる。

さっき急いで食べたせいか、唇の端にクリームがついている。

それに気づいて、親指の先でクリームをふき取って、ん、と口の中に入れた。

少年のほうは、悲惨だった。

地面はぬかるんで靴がドロドロになっているし、朝露で服がぐっしょり濡れている。


「これは、ひどい……」


たいして移動していないのに、息があがってしまった。少女は風のようにひまわりの間を通り抜けていくことができるのに、少年はひまわりに邪魔をされまくって、進めない。何本か茎を折ってみたけれど、今度はその倒れた茎が少年の行く手を阻む。

少年は、すぐに、追いかけるのを諦めた。

ひまわり畑は、ずっと遠くまで続いている。

その向こう側には森があって、山がある。

これだけ開けた視界だけど、家や道路などの人工物は、ここからは何も見えない。

ここまで人の手が何も入っていない場所があるなんて、聞いたことがない。


「追いかけてこないの……?」


遠くから、少女の声が聞こえた。

すごく綺麗な声だと思った。妖精の声かと思った。


「ああ。ぼくには、捕まえられそうにない」


「諦めるんだ。大人なんだね」


「えっ」


「大人には、私は捕まえられないよ」


冷たい言い方だった。まるで小動物が、大型動物を警戒しているような。

少年が何かを言う前に、少女はまた逃げた。

ひとりで佇むわけにもいかず、仕方なく、彼女の背中を追いかけた。追いかけっこに、付き合わされる羽目になった。

でも、不思議と、嫌ではなかった。

朝日に当たって、汗が噴き出してくる。心臓をドクドクと動かしているうちに、冷たく固まった心が、溶けていくような、そんな感じがした。

少年は、汗と泥と、ひまわりの青臭い匂いにまみれた。ひどい有様だった。それでも、少女を追いかけていく。


ここは一体何だろう? 

あの少女は、なんだろう? 


さっきからずっと考えているけれど、答えが出ない。

でも、あの美少女が持っていたタルトは、さっき目の前で風待さんが作っていたフルーツタルトだった。

おまけに、風待さんと似ている、あの美少女。


「大人には捕まえられない」


っていう言葉。

それは、さっきの会話を暗示しているみたいじゃないか。

少年は、自分は大人なのか、それとも子供なのか、自問自答した。答えはでなかった。

でも、大人には捕まえられないということは、子供なら捕まえられるのだろうか。

子供の気持ちを取り戻すことが、この場合、正解なんだろうか。

子供の気持ちって、なんだろう? 純粋さ? 清潔さ?

そんなものを持ったところで、足が速くなったり、ひまわりの間を簡単にすり抜けられるようになったり、するものなのだろうか?

そこまで考えて、考えるのをやめた。

今必要なのは、そういう思考じゃない、と思ったから。


ひまわりをかき分けて進んでいると、少年の背丈よりも伸びた、大きなひまわりが群生している場所に行き着いた。

さっきまでの小さなひまわりと、大きなひまわりの間に、ちょっとしたスペースがあった。

そこに例の美少女がいる。少年との追いかけっこにすでに興味をなくしていたのだろうか。おお……と、大きなひまわりを見上げていた。


「来ないで」


少年の姿をみとめた少女が、怯えたように、小さく叫んだ。

その後、ゆっくりと手招きする。


「きみの服が、汚れているから、ね」


少年は指示通り、距離を確かめるように、ゆっくりと近づく。

太陽に当たっている場所は、地面がよく乾いている。

そこに少年を座らせると、彼女もすぐ隣にかがんだ。


「ちゃんと、きみの分もあるよ」


彼女は、肩にぶら下げたカバンを開けて、ケーキの箱を取り出した。

すぐ近くにあった平らな石の上に箱を置くと、箱はパカッと自動的に開いた。

逃げるときに、あれだけ激しく揺さぶっていたはずなのに、箱の中のタルトは、さっき風待さんが作った通りの、繊細さを保っていた。

それから少女は、カップも水筒も持っていた。

水筒から注がれたコーヒーは、さっき風待くだもの店で漂っていた匂いだった。

彼女に勧められるまま、少年は黙ってタルトを齧って、コーヒーを啜った。

タルトのフルーツがびっくりするほど美味しかった。

フルーツタルトなんて、今まで、何が美味しいのかよくわかってなかったけれど、こんなに美味しいなんて知らなかった。

もう世界中にあるケーキやさんは、フルーツタルトだけ作っていればいいと思った。

食べながら、少年は、しばらく呆けていた。

綺麗な景色の中で、美味しいケーキを食べている。

おまけに、目が潰れそうなぐらいの美少女が隣にいる。

いったい自分は、今まで、何を悩んでいたのだろう?


「夢のようだな」


少年は、ふと呟いていた。

笑うかな、と思ったけれど、隣の美少女は、大真面目にうなづいていた。


「そうよ。ここは夢。風待草が見せる、ひとときの夢よ」


「風待草って?」


「梅の木のことよ」


「梅の木……? 風待さんの正体は、梅の木だったのか」


ふっ、と美少女は笑った。

少年の解釈には、何か誤解があるようだった。

でも少女はそれを修正しなかったし、少年もそれ以上尋ねなかった。

すでに、生身の人間が理解できる領域を、超えてしまったところにきている。

梅の木、と少女が発言したあたりから、自分の口の中に、甘い匂いが残っているのに気が付いていた。

風待さんから渡された、あの梅ジュースだった。

理屈はわからないけれど、風待さんが、この夢幻をみさせてくれているのは確実だった。

あるいは、こんな夢幻をみてしまうほど梅ジュースが美味しすぎた、と言えるかもしれない。

なぜだろう。ふいに泣きだしたくなった。

泣きたいほど、美味しかった。

泣きたいほど、心地よい時間が流れた。


「君の名前は、聞いてもいいかな?」


「だめよ」


「そっか」


「諦めがいいんだね」


「なんか、聞いてもしょうがないな、って思って」


「そう」


「どうせ、もう会えないのだろう?」


「…………」


「でも、いいんだ。君に会えただけで。ここで出会って、美味しいケーキ食べて、コーヒー飲んで。素敵な思い出をありがとう。ずっと忘れないから。悲しいことがあっても、君と、風待さんに出会えたことが、心の支えになる気がするよ」


少女は、一瞬悲しい表情をしたようだったけれど、すぐにもとの表情に戻った。

今度は、風待さんが浮かべるような、穏やかな表情だった。こういう顔をすると、やっぱり、似ていた。

しばらく無言でいた後、彼女は立ち上がった。


「風待が見せてくれたものを心の支えにしてもいいし、しなくてもいい。風待は人間を導いてはくれないし、一緒にいてあげることもできない。ただ一瞬の、ジュースを飲んだ時の、香りと甘みを感じている瞬間のような……ふわっとして、すぐに消えてしまう、そんな感じ」


「そんなに消えるのが早いなら、君とこうして、もっとゆっくりしたかった」


「冷たいって、思った?」


「そうじゃないけど……」


「ごめん」


「どうして、謝るの?」


「だって」


「じゃあ僕は、ありがとう、って言うよ」


「どうして?」


「音楽とか芸術とかと同じさ。どう感じるかは、それを見聞きした人間次第だよ。僕は、風待さんに、素敵なところに連れて来てもらったし、そこで、君に出会えた。それが例え夢や幻でも、僕にはそれで十分なんだ。君にはもう会えなくても、今、一度会えただけで、それでいいんだ。今、そういう気分になった。おい、どこにいくんだ」


美少女は、少年と距離をとった。

その足取りは、風のように、軽かった。


「実はあとひとつ、タルトが残ってるけど、これは私のね」


「えっ」


「このひとつは、特別にフルーツたっぷりなの。すっごく美味しい部分。でも、今度はもう捕まってあげないから。そんな泥だらけの身体で、近寄らないでね」


べっ、と彼女は、舌を出してみせた。

自然と少年は、彼女の、風のように揺れる背中を追いかけるために、駆け出した。

今度こそ、彼女の背中を、捕まえたいと思った。今度は、届きそうな気がしていた。




おわり


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