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松本隆「水中メガネ」は、なぜ水中メガネなのか。





こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、天才松本隆作詞の「水中メガネ」を眺めていこうと思います。

この曲のテーマは、「時の残酷さ」を味わうものだと私は解釈しています。言い換えれば、この曲を通じて「時の残酷さ」をめいいっぱい味わうような解釈をすることが、もっとも切なさを最大にしてくれるんじゃないかなと、私は思っています。

この曲はめっちゃいい曲なので、いろんな解釈があるかとは思います。アナタがこの曲に対して抱いている、アナタだけのステキな解釈もあるかと思います。わかります。他人の解釈を聞くと、自分の解釈が汚れるようで、なんかイヤな感じがすることがありますよね。自分だけの解釈を、自分だけの感覚とともに、胸に仕舞っておきたい、そう思います。特に、この「水中メガネ」のような、懐かしさや繊細さで心がいっぱいになるような、ステキな曲に関しては。

もし、自分だけの解釈を大事にしたいと思う方や、汚されたくないと思う方は、これから先は読まないほうがいいでしょう。

詞の中に隠されている、もっともっと深い部分に触れたいという探求心のある方は、どうぞ、このままお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。

私と一緒に、ステキな詞の世界を眺めていきましょう。


はじめに、詞のタイトルは「水中メガネ」です。これはめちゃめちゃ非凡ですね。すごいと思います。

最初みたとき、変なタイトルだなと、私だけではなく、みなさんも思ったに違いありません。水中メガネ、というモノの、どこに心が魅かれる部分があるのか。曲のタイトルとしては、もっといいモノがあったんじゃないか、そう思ったでしょう。

今でこそ、アマゾンとかで「水中メガネ」を検索してみますと、めちゃくちゃ高性能でオシャレなものが見つかります。名前も「スイミングゴーグル」とカッコいいものに変わっています。でも当時の「水中メガネ」といえば、私たち一般人がプールの授業とかで使用するものに関しては、実用的であるのみのモノでした。装着した姿がカッコいいなんてことはないし、むしろダサいので、授業の時に装着しろと言われたときにしか着用しない、そういう類のものでした。沖縄のサンゴ礁が見たいというなら話はわかりますが、プールの中がよく見えたとしても、感動しまくることはないと思います。まあとにかく、「水中メガネ」自体に情緒を感じるのは、結構難しいものだと思います。「水中メガネ」をテーマに詞を作れ、と学校の課題に出たとしたら、みんな頭を悩ませるんじゃないでしょうか。

でも、この詞は、水中メガネのダサさこそを、効果的に使っていると思うのです。

詞の中で使われている水中メガネの意味を求めていくと、「ああ、この詞のタイトルは、水中メガネ以外にないな」と、見えてくるのです。

いったい、どういうことなのか。これらを踏まえて、順番に詞を見ていきましょう。



水中メガネで記憶へ潜ろう

蒼くて涼しい水槽の部屋

主人公は、女の子です。この詞は終始、この女の子目線です。

水中メガネを着用していますが、潜っているのは海やプールではありません。「記憶」とのことです。ようは、水中メガネを着用して遊んでいた、去年の夏の思い出を思い出しているわけです。

なおかつ、この女の子は、現時点では、思春期の女の子に成長しています。なぜなら「蒼くて涼しい」という表現ができるからです。このあたりをうまく説明するのは非常に難しいんですけど、例えば感性が思春期のものまで育っていない場合、「無言の会話」という表現ができません。「微かな潮騒」という表現もできません。音の大小はわかっても、無音あるいは微かな音に耳を澄ませて、それを意味のあるものとして捉え、情緒的に使うなんて高度なことができないのです。豊かな語彙に感性が乗って、はじめて表現できる領域のものなのです。「蒼くて涼しい」も同じように、思春期の感性がなせる表現なのです。なぜなら、今の女の子の目の前には、水中メガネはあっても、潜るべき水がありません。でも、「蒼くて涼しい」記憶の海という、幻想の海に身を委ねようとしているのです。これができるのは、思春期からなのです。

一方で、思春期は「水中メガネ」のようなダサいものを嫌います。「なんでアンタ、そんなダサいものつけてるの?」とバカにされるのが、何よりも嫌だからです。ということは、水中メガネをキチンと着用していた去年までの自分は、思春期ではない女の子だった、ということになります。

この場面は、思春期になった自分が、思春期でなかった頃の自分に戻る、という場面なのだと思います。



あなたの視線に飽きられちゃったね

去年は裸で泳いでたのに

ここの「あなた」は、男の子です。去年は一緒に、裸で泳いでいた仲です。たぶん近所の幼馴染とか、同級生とか、そういう関係の男の子でしょう。彼もまた、思春期ではありませんでした。ようは、どこにでもいる、無邪気なただの子供です。幼いころからずっと一緒に遊んでいたので、思春期を迎える直前になっても、ずっと一緒にいた。そんな感じなのだと思います。

でも、今現在の「あなた」は、女の子に視線を向けようとしません。「飽きられちゃった」と女の子目線では言っていますが、これはいったい、何があったのでしょう?

二人の関係が本当にお友達同士だったなら、飽きられることはありません。一緒に遊んでいるゲームに飽きたなら、別のゲームをすればいいのです。どこまでいっても友情はそれなりに続くはずです。でも、「飽きられちゃった」ということは、すなわち、二人の仲は、ある日を境に友情ではなくなったということです。別の何かに変質し、そして破綻したということです。



泣きながら鏡の

前で踊るゆらりゆらり俄か雨

水中メガネをつけたら

わたしは男の子

女の子が水中メガネをつけた状態で、過去を思い出して泣いている場面だと思います。水中メガネの内側で泣けば、水滴が内側のレンズに付着します。その水滴が、自分の嗚咽にあわせて、ゆらりゆらりと動きます。女の子の目の前の光景はまるで、にわか雨のようだったでしょう。

ここまで解釈すると「わたしは男の子」という部分に、いろんな意味が重なってきます

水中メガネをつけた今の自分は、年頃の女の子にふさわしくないダサさでしょう。まるで、オシャレも何もわかっていない、男の子のようです。今の自分を他人が見ると、そういうふうに見えるでしょう、という解釈ができます。

また、水中メガネをつけた自分は、過去の自分です。彼と一緒に遊んでいた頃の、無遠慮な男の子のような自分です。彼に好かれていた頃の自分です。思春期ではない、何も知らない、無垢で純粋な男の子だった頃の自分、という解釈ができます。

前者の解釈では、「男の子に戻りたくない」という気持ちになります。一方で後者の解釈では、「男の子に戻りたい」という気持ちになります。どちらが正解かと言われると、どちらも正解だと私は解釈したいと思っています。彼が自分に興味を失ったことに対する悲しみの気持ち、そして、自分がもう男の子に戻れないことに対する悲しみの気持ちに、整理が付けられないという、心がゆらりゆらり揺れている様子が、この詞に感じることができるのです。



微かな潮騒 空耳なのかな

無言の会話がきしむ音かな

あなたは無視して漫画にくすくす

わたしは孤独に泳ぎだしそう

「微かな潮騒」や「無言の会話がきしむ音」というのは、先ほど述べましたとおり、女の子が思春期になったために感じていることです。自分の心の中にある寂しさや悲しさを、周囲の風景や音に重ね合わせることができちゃうのです。

一方で、「あなたは無視して漫画にくすくす」の部分に「あなた」の成長の無さが現れています。月日がたっても、彼は変わらず、子供のままなのです。

思春期の女の子と、子供の男の子では、まったくかみ合いません。なにせ、住む世界が違うのですから。女の子目線では「飽きられちゃった」となっていますが、彼には彼の言い分があるのかもしれません。たとえば、彼は子供なので、水中メガネを平気で着用できるでしょう。一方で彼女には、それが耐えられない。こういう価値観の違いがあらわになってくると、ケンカにもなるでしょう。彼からすれば、いちいち不毛なケンカをするぐらいなら、漫画でも読んでいたほうが楽しい、と、そういう気分にもなります。

いっぽうで、思春期の彼女には、「孤独」が怖いのです。思春期だからこそ、なおさら孤独が怖くなるのです。この孤独の怖さを、子供の彼にはよく理解できません。わかってもらえないので、彼女は別の場所を求めて「泳ぎだしそう」になっているのです。



熱帯の魚と

じゃれるように暑い暑い夏の夜

心はこんなに冷たい

私は男の子

ここです。

たぶんですけど、この女の子と男の子は、あの夏の夜に性行為をしました。何も知らない子供同士が、興味本位で行ったのです。まるで熱帯の魚とじゃれるように。暑い暑い夏の夜を過ごしたのだと思います。

だからこそ、今「心はこんなに冷たい」のだと思います。

彼との行為がなければ、今頃普通の女の子として、恋に憧れていたでしょう。でもそんな純粋な熱を失って、心が冷え切っています。普通の女の子なら、恋をすると心が温かくなるけれども、今の自分は、こんなに冷たい。女の子ではない。という意味で、「私は男の子」という言葉を使っているのではないかなと。



岩陰でいちゃついてた

あの夏の匂い

「いちゃついてた」という言葉の選び方。ここには、何か子供っぽさを感じます。「アイツとアイツ、いちゃついてる~!」なんてのは、小学生がからかう時ぐらいです。大人の男女が仲良くしている光景を目にしても、いちゃつく、とは表現しません。

子供同士が、いちゃついていたことを表現するのに、いちゃつく、をここに当てはめたのだと思います。この部分にも、作詞のセンスが光っています。



洪水みたいに

時の波がゆらりゆらり打ち寄せる

水中メガネの向こうで

一人 鏡の

前で踊るゆらりゆらり俄か雨

水中メガネを外せば

見知らぬ女の子

時の波が、洪水のようにやってくる感覚を、この女の子は体験しています。

それは、「思春期を迎えていなかった頃の、彼との楽しい思い出」と、「思春期を迎えた今の、彼との悲しい関係」が、心の中で衝突したことで起こりました。悲しさとか、懐かしさとかが、波のように心に迫ってきたのです。

でも、この状態にいつまでも浸っているわけにはいきません。この女の子にとっては、水中メガネは自分の価値観にそぐわない、ダサいものです。脱ぎ捨てなければいけないものなのです。

なので最後は、外しています。

そこに存在しているのは、彼の知らない「見知らぬ女の子」です。彼女は、水中メガネをかけている彼の知っている女の子から、彼の知らない「見知らぬ女の子」に変身して、前に進んでいくのです。




という感じで解釈してみました。

歌詞全体を眺めてみると、この解釈なら、この詞のタイトルが「水中メガネ」になっていることが納得できると思います。「水中メガネ」が、いろんな場面で、いろんな効果を生んでいるのです。

とはいえ、詞の世界というのは、効果的でなければ言葉を使ってはいけない、なんて了見の狭い世界ではありません。むしろ、言葉の意味を越えたところに、伝えたい何かがあるのだと思います。これを読んでいるアナタは、「水中メガネ」という曲を通じて、私がこれまで解釈してきたメッセージ以上のものを受け取っていると思うのです。それは決してマヤカシではなく、本物なのだと思うのです。

これを表現できるのが、松本隆のすごさであり、草野マサムネのすごさなのだと思います。




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