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スピッツ「漣」は、胡蝶の夢説。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「漣」について解釈していこうと思います。

ブログタイトルにしておりますが、みなさん「胡蝶の夢」って何か知っていますか? 私は高校の漢文の授業とかで習った覚えがあるんですけど、みなさんは履修した覚えはありますでしょうか?

「胡蝶の夢」とは、中国の思想家、荘子が提唱した思想です。

荘子はある日、自分が蝶々になった夢を見ていました。夢から覚めた時「私が蝶々になっていたのは現実だろうか。むしろこの世界の方が夢なんじゃないか。どちらが正解とはいえないんじゃないか」と言いました。普通に聞くと、寝ぼけているのか、と思うかもしれません。でも荘子の思想というのは、虚無主義とか、こだわりを捨てるような理論を展開しています。この思想を最終的に突き詰めていくと、「胡蝶の夢」にたどり着くというふうになっているわけです。高校の時に、こんな年寄りの寝ぼけたエピソードを聞かされたのは、荘子の思想を学ぶ上ではめちゃめちゃ重要な考え方だったからなんですね。

この「漣」は、「胡蝶の夢」のエピソードをもとにしているんじゃないかな、と私は思ったんです。

「漣」は、普段つかわない字です。歌詞中ではちゃんと「さざ波」となっているのに、タイトルをわざわざ「漣」にしたのは、「これは漢詩がヒントなんです。そう読み取ってくださいね」という、マサムネさんのメッセージになっているんじゃないかなと。

それでは、歌詞を順番に追って、見ていきましょう。




毎度くり返しては すぐ忘れて

砂利蹴飛ばして走る 古いスニーカーで

なぜ鳥に生まれずに 俺はここにいる?

マサムネさんは、デビュー曲「ヒバリのこころ」にて、自分はヒバリだ、と申告していました。そう、私は解釈しています。

そのとおり、マサムネさんは、「俺って本当は鳥に生まれるべき存在だったんじゃないか」と、思っているようなフシがあります。

この「漣」の仮タイトルは「鳥以外」だったそうです。鳥として存在している自分と、鳥以外として存在している自分。それが世界を隔てて2つ同時に存在していて、マサムネさんは夢の中で2つを行き来している。そんな感じがします。荘子の「胡蝶の夢」では、蝶々と荘子がリンクしていましたが、マサムネさんの場合は、鳥とリンクしている、というわけです。

この部分の詞は、夢の中で鳥であった性格が、現実のマサムネさんにも影響を与えていることを示唆しているのだと思います。鳥は忘れっぽいので「毎度くり返しては すぐ忘れて」しまいます。かつ、慌てんぼうなので、「砂利蹴飛ばして走る 古いスニーカーで」ってなことになります。

そういう調子なので、人間であることに疲れたマサムネさんは、「なぜ鳥に生まれずに 俺はここにいる?」と、本気で疑問に思っています。



湿った南風が 語りはじめる

ミクロから夜空へ 心も開く

ため息長く吐いて 答えはひとつ

でも、鳥とリンクしていることで、いいこともあります。鳥は風が読めるのです。「湿った南風が 語りはじめる」と言っている通り、マサムネさんは南風と通信をすることで、曲のヒントを得ていたのでしょう。

「ミクロから夜空へ 心も開く」もまた、鳥になることで恩恵を得ていた部分だと思います。ミクロは、人間の中のひとり、という意味だと思います。マサムネさんは人間であるうちは、大勢の中の一人にすぎません。他の人と同じ考えをし、同じ行動をし、同じような部屋で同じように眠るのです。でも鳥になれば、夜空を自由に飛びまわれます。こうすることで、やっと自分の「心も開く」感覚になるのだと思います。

マサムネさんは、ため息を長く吐いて「俺は、やっぱり鳥だったんだな」という、ひとつの真理にたどり着きました。



こぼれて落ちた 小さな命もう一度

翼は無いけど 海山超えて君に会うのよ

「こぼれて落ちた 小さな命」は、夢の中で鳥になったマサムネさんが一緒に遊んだ、小さな鳥のことだと思います。マサムネさんの夢の世界の中に「こぼれて落ちた」、特別な存在なのです。運命の相手といってもいいでしょう。

夢から醒めたマサムネさんは、その君を探して海山を超える、と言っています。

通常だったら、現実世界で恋に落ちた相手が夢にでてくることは、よくある話だと思います。でもマサムネさんの場合は逆です。夢の中の鳥が、マサムネさんにとって現実なのですから。そこで出会った運命の相手を、現実という名の夢の中で探す、という、ちょっと自分でも何言ってるかよくわからなくなってきましたけれども、ようはそういうことをしたいのだと思います。



ぬるい世界にあこがれ それに破れて

トガリきれないままに 鏡を避けて

街は今日も眩しいよ 月が霞むほど

ここは、人間バージョンのマサムネさんの、社会の適合しにくさを表しているのだと思います。なんとなく音楽をやって暮らしていけたらいいなぁ、と考えていましたけれども、うまくいかず、自分の音楽人生は失敗しました。(と本人は思っている)

どんな方向にもトガリきれずに、人間の顔が映る鏡を避けています。こんな顔は、本当の俺じゃない、と思いながら。

夜の街はずっと眩しくて騒がしくて、月が霞むほどです。ここは自分の居場所じゃない、と思っています。



現は見つつ 夢から覚めずもう一度

四の五の言わんでも 予想外のジャンプで君に会うのよ

「現は見つつ 夢から覚めず」は、まさに「胡蝶の夢」を表しています。自分は本当に鳥なんじゃないか、夢の中の鳥の姿が、本当の自分の姿なんじゃないか、と思い込んでいます。

なので、鳥になって「四の五の言わんでも 予想外のジャンプで君に会うのよ」ってことだけを考えています。



キラめくさざ波 真下に感じてる

夜が明けるよ

ここは、鳥になったマサムネさんが、翼を広げて、さざ波の上を滑走している様子が描かれています。曲が盛り上がる一番いい場所で、さざ波の上を飛んでいるという、めちゃくちゃ爽快なシーンです。さざ波の上は、人間には絶対に飛べません。鳥だから飛べるのです。

夜が明けるよ、とは、もうすぐ夢が終わるということです。マサムネさんは現実に戻らなければいけないことです。このしばらくの間、マサムネさんは、本当のマサムネさんになるのです。



という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?

さざなみCDの前に発売されたスピッツのアルバム「色色衣」の仮タイトルは「酔生夢死」だったそうです。マサムネさんが酔生夢死というワードをめっちゃ気に入っていたのだそうですが、老荘思想の「胡蝶の夢」の世界観もまた、それに通じるようなところがあります。

さらにマサムネさんは「漣」について、考えていたとおりのものができた、的なことを語っております。「色色衣」にて叶えられなかった思いが、「漣」にて昇華された、と考えるのは、どうでしょう? それっぽいと思いませんか?

まあ、歌詞を解釈するのに、このあたりの領域にまで食い込んでこないといけないとなると、大変ですね。私は漢詩に通じているわけではありません。ただの八百屋さんには、なかなか大変な解釈となります。私程度の知識量では、足りない部分もあるでしょう。

スピッツ好きな人が、若い世代で増えているという話もありますが、若い方はぜひ、国語の勉強を頑張ってもらえたらなと思います。そうしたら、マサムネさんの世界を楽しむことができるという、大きな大きな特典にありつけるかもしれません。



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