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スピッツ「モニャモニャ」が教えてくれる、人生の逃げ方。~スピッツ歌詞解釈~

更新日:2023年7月22日



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「モニャモニャ」について解釈していこうと思います。

この曲は、「スピッツは、ひきこもりだ」と評されていた初期スピッツを、もろに表現したような曲となっております。この曲が収録されているアルバム「醒めない」は、原点回帰を目標に制作されていますが、まさに初期スピッツの「弱さ、柔さ」を、現代のマサムネさんの作詞作曲技術を持って蘇らせた一曲となっていると思います。むしろ初期スピッツと比べても、マサムネさんの表現技法が聴き手にとって汲み取りやすい方向に向上しているため、より純度の高い「弱さ、柔さ」が感じられる内容となっていると思います。


「弱さ、柔さ」と、当たり前のように言いましたが、スピッツのテーマが「弱さ、柔さ」であることは、よっぽどの事情通のファン以外は、違和感を覚えるところでしょう。彼らが大ブレイクするきっかけとなった曲である「ロビンソン」などは、「大きな力で何かを空に浮かべる曲」ですし、「チェリー」は「愛しているの響きだけで強くなれる曲」です。「空も飛べるはず」なんて、空まで飛んじゃうぐらいですから。どのへんが弱いのか、と疑問に思うことでしょう。


私も、最初はそうでした。私がまだ高校生か大学生ぐらいの、スピッツを知り始めた頃ぐらいだったと思うのですが、先ほど述べました「スピッツは、ひきこもりだ」の論評を見聞きして、激怒した覚えがあります。「なにがひきこもりだ。彼らはブレイクして、テレビだライブだと大忙しで、ファンは女性がほとんどで、これ以上ないぐらいの充実した人生を送っているじゃないか」と。

それから時を経て、私は青果部で働くようになりました。朝の5時に市場に行き、6時には会社に行き、それから夜の22時まで会社にいる生活。昼休みの時間はずっとレジをこなさなければならなかったので、お昼ご飯を食べる暇がなく、カロリーメイトを買って、合間に毎日2本ずつ食べていました。夏はウィダーインゼリーです。休日も出勤しましたが、もちろん超過勤務手当など出ません。親切な事務員さんが、定時出社の定時退社としてキッチリ記録をしてくれていたからです。その私を横目で見ていた鮮魚部配属の同期が「羨ましいなぁ」と力のない声で言うのです。鮮魚部はもっと朝が早く、夜が遅いからです。それに繁忙期となれば、3日3晩飲まず食わずで徹夜して魚を捌くことがあり、加工場で立ちながら2,3分だけ仮眠をする方法を習得していました。それでも手が止まると、先輩社員から出刃包丁が飛んでくるという、厳しい環境だったのです。と、二人で仕事のしんどさを嘆いていると、そこに先輩社員が現れて「君らは若いんだから、まだまだ無理がきくだろう」と言いました。パワハラかな、と思ったらそうではなく、先輩社員は、家族を顧みないからという理由で奥様に愛想をつかされ離婚の憂き目にあい、現在は子供の養育費と、誰もいなくなった新築の家のローンを支払うために、車の中で寝泊まりしながら朝から晩まで働いている、と、私たち若手社員に輪をかけて厳しい仕事内容と家庭環境で、心身ともに疲れていることに関しての愚痴でした。先輩社員のスケジュールでは、確かに家に帰るなど物理的に不可能ですから、結婚したのも、家を建てたのも、はっきりいって無計画と言わざるをえないですが、同時に、こんな働き方をしていては、結婚もできないだろう、と、将来の我が身を思って絶望したのでした。

私と同じ青果部で働いていた先輩で、自家用車で帰宅途中に寝不足によりハンドル操作を誤り、歩行者をはねて死亡させてしまった方もいました。彼は被害者に賠償をするべく働き続け、最後は勤務中に、会社の社員食堂で眠るように亡くなっていました。突然死でした。

こんな状況で働いていると、心に弱さがでてきます。「会社を辞めてひきこもることができたら、どんなに楽だろう……」と。


そうなんです。みんな疲れているんですよね。

生きるというのは、辛いことです。辛いことでも我慢して、笑顔で頑張らないといけないのです。

そんな辛い人生に寄り添ってくれるのがスピッツなんだと、帰宅途中、深夜だれもいなくなった幹線道路を走りながら、車の中で聴いたスピッツを聴いて、ふと思いついたのです。

今まで私はテンションを上げるために、車の中の音楽は「勇者王ガオガイガー」をエンドレスリピートにしていました。が、いつの間にか、ガオガイガーでは元気が出なくなっていた自分に気が付いたのです。笑ったり泣いたりといった、感情が薄くなっていました。

そこで、気まぐれにスピッツでもかけてみました。その時は特に何も感じなかったんですが、ふと誰もいない場所で一人になった時、「何をやっているんだろう……?」という気分になってくるわけです。

今までは、「勇者王ガオガイガー」にて、自分の弱さ、柔さを、見ないように努めてきました。強くなければ、仕事をしていけなかったからです。でも同時にそれは、人間性を喪うことにもなりました。私は、働くマシンになりたかったのでしょうか? どんな困難にも立ち向かう、不屈の従業員になりたかったのでしょうか? それになれたとして、いったい私に何が残るのでしょう?

こんな感じで、私の心を「弱く、柔く」してくれたのが、スピッツなのです。

同時に、「弱さ、柔さ」こそが、本当の人間らしさなんじゃないかなと。

この「弱さ、柔さ」に気が付いたからこそ、私は人身事故を起こさずにすんでいますし、突然死もまだ起きていません。愛する人と結婚さえ、することができました。


自分語りが長くなりましたが、スピッツは私にとって、「弱さ、柔さ」の素になっているということです。

同時に、それは私にとって、どうしても必要なものでした。それがあったから、今の自分があると言っても、過言ではないと思います。

「弱さ、柔さ」は、唾棄すべきものとして語られることも多いのですが、それは違います。人間らしくあるためには、どうしても必要な部分なのです。この「弱さ、柔さ」を見つめて、うまく付き合うことで、人間としてバランスがよくなるのです。

スピッツ「モニャモニャ」は、最初に述べましたとおり、マサムネさんが「弱さ、柔さ」に、真正面から向き合い、表現した曲だというふうに、私は解釈しています。

つまりこの詞は、自分の「弱さ、柔さ」に、どう向き合っていけばいいのかを、教えてくれている気がするのです。



優しい眼で聞いている 僕には重要な言葉

感情は震えても 余裕なふりして隠し続けてた

私たち消費者は、購買した商品について、メーカーや販売店に意見をする権利があります。「まずい」「汚れてる」「使いにくい」「すぐ壊れる」……これらのご意見に対して、メーカーや販売店は誠実に対応する義務があります。

「貴重なご意見をありがとうございます。ぜひ、検討させていただきたいと思います。より良いものを作っていきたいと思いますので、これからもどうぞご意見、ご感想よろしくお願いいたします」

メーカーや販売店は、クレームに対して、そう返答しているでしょう。実際にメーカーはクレームを参考にして、改良を重ねていっています。その結果、美味しくなったり、綺麗になったり、機能性が増したり、頑丈になったりしています。よりよいものをリリースすることができ、より多くの人に支持をされ、その結果、売り上げが向上するでしょう。クレームは、いい循環をもたらしてくれる側面があります。

さて、マサムネさんもまた、広い意味では、商品やサービスを提供する立場にあります。つまり、自分のファンになってくれている人が意見を言ってきたら、それに対して、誠実に対応する義務があるのです。

「もっと男らしい曲が聴きたい」「カバー曲を歌ってほしい」「私の気分にピッタリの曲を作ってほしい」「もっと全国ツアーを沢山やってほしい」「もっとテレビ出てほしい」……ファンなら、誰もが一度は望んだことのある意見だと思います。

こういう意見に対して、マサムネさんは、どういう反応をするでしょう? たぶん、モニャモニャの歌詞通りの反応になるのではないのでしょうか?

「貴重なご意見ありがとうございます」と、優しく大人の対応をしてくれるでしょうし、スピッツの今後の活動方針を決めていく上でも、検討する価値のある意見もあるでしょう。

でも、多すぎる要求にたいして、頭を抱えることもしばしばあるのではないのでしょうか。余裕なフリをしていても、感情が震えている。そういう場面が想像できます。



モニャモニャが一番の友達

なだらかな草原を走りたい

つまづくまで 燃え尽きるまで

ここに出てくる「モニャモニャ」とは、架空の生き物とのことです。この曲が収録されているアルバム「醒めない」の表紙に描かれている毛むくじゃらの生き物が、まさにモニャモニャです。大きさといい、風貌といい、ネバーエンディングストーリーに出てくるファルコンみたいですが、ネバーエンディングストーリーもまた、いじめられっ子の主人公が嫌なことから逃れたいがために本に没頭することが、物語のプロローグとなっています。

受け止めきれないほどの辛い現実があって、心が砕けてしまいそうになった時、すぐに逃げ込める「物語」があれば、それに没頭できます。没頭することによって、しばし辛い現実から逃れることができるというわけです。

この、妄想の友達を「一番の友達」と言い切っています。「根暗だな、友達いないのかよ」と思う人もいるかもしれませんが、ここは、これでいいのです。「言いたいことをいうけど根はいいヤツ」とか「仕事だと頼りになるスタッフ」とか「ファンのみなさん」とかは、仕事モードの時は限りなくありがたい存在だと思うんですけど、休憩モードの時は、会いたくないはずです。だって、「貴重なご意見」を、よかれと思って、言ってくれるのですから。

妄想は、現実の一切を投げ出して、全力で浸らなければいけません。そんな世界に「言いたいことをいうけど根はいいヤツ」を連れて行ったら、どうなるでしょう? せっかく気持ちよく、なだらかな草原をモニャモニャと走っているところを、「しょうもない妄想しているな」と、水を差されてしまうでしょう。これでは、ぶち壊しです。

休憩モードでの一番のお友達は、モニャモニャ以外に務まらないのです。



笑うことなど忘れかけてた 僕を弾ませる

モニャモニャは撫でるとあったかい

この部屋ごと 気ままに逃げたい

夢の外へ すぐまた中へ

やがて雨上がり 虹が出るかも 小窓覗こう

笑うことなど忘れかけてた 僕を弾ませる

この部分は、上記で述べてきた「辛い現実から逃げるために、妄想の世界にいく」ということの繰り返しの内容になっています。

「笑うことなど忘れかけてた 僕を弾ませる」の部分は、個人的にぐっとくる部分です。長時間労働により頭がおかしくなっていた頃というのは、心の底から笑ったり怒ったり、できなくなっていました。感覚がマヒしているような状態が、ずっと続いていたわけなんです。それは「勇者王ガオガイガー」を聴いても治りませんでしたし、何をしても空虚な感じでした。たぶん、心の内側が壊れているのに、外側を一生懸命直しているようなものでした。友人たちが私の様子を気にして、遊びに連れ出してくれた時もありました。「話を聞くよ」と親身になって聞こうとしてくれた時もありました。しかし、私にとっては、どれもダメでした。心が弾んでくることがなかったんです。逃げる場所がなかった私は、勝手に追い詰められていきました。心の中に逃げ込む場所を、作っていなかったからです。自分の心が今どういう状態かが、まったくわかっていませんでした。自分との対話が、できていなかったんです。

マサムネさんは、自分との対話がとてもうまいことが、「モニャモニャ」の内容から読み取ることができます。自分の心の中には、幼い自分がいて、いつもは大人のフリをして頑張っているんです。でも一人きりになった時は、子供の自分をモニャモニャと遊ばせてやっています。子供の自分がモニャモニャに乘って、草原を走ったり、空を飛んだり、星を眺めたりしているのでしょう。それを大人の自分が遠くから眺めて、満足しているという場面なのです。



このブログのタイトルは、スピッツ「モニャモニャ」が教えてくれる、人生の逃げ方、というふうにしてみましたが、いかがでしたでしょうか?

心が死ぬというのは、子供の自分を見失うということです。遊びたがっている自分を殺すということです。それは立ち向かっているように見えて、実は追い詰められているという状況なのではないのでしょうか。

また、この状況から物理的に逃げるのも、難しい話ですよね。逃げろ、とひとは簡単に言いますが、仕事があり、ローンがあり、守るべきものがあれば、逃げたくても逃げられないのです。

こういう場合、どうすべきか、のヒントが、「モニャモニャ」にて、表現されていると、私は思います。

マサムネさんの場合は、もう一人の自分にモニャモニャをご用意してあげましたが、ひとりひとり違うと思います。

マサムネさんでいうとこの「モニャモニャ」にあたる部分を、心の中にあるもう一人の自分に与えてあげること。ひいては、心の中の自分が、いったい何を望んでいるのかを、ちゃんと聞いてあげること。

これが、大事なんだと思います。




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