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スピッツ「センチメンタル」にみる、青春とは何なのか?~スピッツ歌詞解釈~

更新日:2023年7月22日



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「センチメンタル」の解釈をしていこうかなと思います。


ブログのタイトルにありますとおり、これは青春を表した曲だと、私は解釈しています。

もっとも、「青春」という文字が表すような、キラキラしている美しいものではありません。部活だラブコメだ、あの夕陽に向かってみんなで走ろう! みたいな、そういう感じのやつではありません。

もっと古い時代に使われていた、暗くジメジメとした、若いゆえの悩み多い時代という意味の、「青春」です。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」みたいな。知らないって? そうですか……。

まあとにかく、「青春」を、そういうニュアンスで捉えてみると、この詞の言わんとしていることが見えてくるんじゃないかなと、そういう風に思うわけです。


みなさんにとって、青春時代って、どういうものでしたか? 世間一般で言われているとおり、ラブコメチックな時代でしたか? 夕陽に向かって全力疾走するような、清く正しく美しい、青春を謳歌していましたか? ポカリスエットのCMみたいな、あんなキラキラした青春でしたか? 

たぶん、そういう青春を送ってきた人っていうのは、ごく少数なんじゃないのでしょうか。ほとんどの方は、暗い地ベタを這いずり回るような、暗中模索をしていたのではないのでしょうか。濡れたシャツを着ているみたいな、なんか不快な気持ちを抱えて、悶々とした日々を過ごしていたのではないのでしょうか。

「青春って、楽しいでしょ?」みたいな、メディアの押しつけがましい宣伝があるために、楽しいものだと勘違いしちゃいがちなんですけど、本来「青春」というのは、悩んだり苦しんだりする時代なのです。大人になるために必要な、誰にでもある成長痛なのです。

その、悩みや苦しみといった感情が、この「センチメンタル」に見え隠れしている、というのが、私の解釈です。



切ない気持ち抱えて笑い出したのは

おとぎの国も 桃色に染まる頃

笑うというのは、何か可笑しさを感じたときに笑います。お笑い芸人の、バカな行動を見たり聞いたりしたとき、私たちは笑います。

でも、ここでの主人公は、心の底から笑っていません。なぜなら、自分が笑われている場面だからです。

たぶん、笑っているのは、主人公が恋をしている、女の子です。彼女は主人公の前で、ゲラゲラ笑っています。主人公が意図せず、なにかバカな真似をしたせいです。大失敗したおかげで、彼女をはじめ、まわりの人間から指をさされて、ゲラゲラ笑われてしまっている状態です。

こうなると、もう主人公も笑うしかありません。

つらい笑いです。これがまだ子供だったとしたら、主人公も心の底から笑えたでしょう。みんなを笑わせたのなら、それは手柄です。面白い人だね、と周りに思われるのは、基本的には得なことです。

でも、主人公は、目の前にいる女の子に恋をしてしまっています。

恋をしている女の子の前では、かっこいい自分でありたい。かっこいいと思われたい。そう願うはずです。でも、かっこ悪いところを見られてしまった。これは手柄ではなく、大失態です

どうにもできずに、ただ自分も一緒になって、笑うしかなかった。ここは、まさに苦い青春の一コマなわけです。

「おとぎの国も桃色に染まる頃」というのは、子供時代から大人に変わる状態を指しています。おとぎ話というのは、グリム童話に代表されるとおり、桃色の話……つまり性的な話がとにかく多いのです。大人向けだった話を無理やり子供向けの話にしたから、大人な部分が見えにくくなっているだけで。

そんな、昔よく聞かされていた話が、実は大人むけの話だったと気づいて、耳が真っ赤になる経験をするのが、青春時代というわけです。



震えていたよ まだセンチメンタル・デイ

裸の夢が 目覚めを邪魔する 今日もまた

恋をしている彼女に、大失態を見せてしまった主人公。震えてしまうのも無理はありません。

失敗した……自分の人生は終わりだ……。そんな、崖っぷちに立たされているような心境に陥っています。小さな失敗で、次の日には誰も覚えていないような失敗を、くよくよと悩んでいる場面です。それが、センチメンタル・デイというわけです。

裸の夢というのは、主人公が好きな女の子が裸になっている夢です。いや、たぶん裸になりそうで、ギリギリならなかった夢だと思います。なので主人公は、その夢の続きがどうしてもみたくて、起きなきゃいけない時間にもかかわらず、もう一度眠りにつこうとします。そういう愚かな行動をしてしまうのが、センチメンタル・デイなのです。



認めてくれた オドされて真に受けず

暗い地ベタを 眩しく月が照らす

「認めてくれた」とは、好きな子が、自分を認めてくれたのです。

「君って、ギター上手だね」「絵がうまいね」「頭いいね」「足が速いんだね」何かの拍子に、そんなふうに、声をかけられたんだと思います。

それで、もう舞い上がっちゃいます。好きな子に笑われて人生の終わりだと思うのが青春なら、好きな子に認められて世界制覇した気分になるのもまた、青春です。もうギターひとつでヒットチャートを駆けあがるのも夢じゃないと思えるし、テレビでひっぱりだこのアーティストになれちゃう気がするし、東京大学にも行けちゃう気もするし、世界陸上で各国の実況アナウンサーに名前を連呼される未来を想像しちゃったりもします。

「おい! こんな成績じゃ、どこの大学にもいけないぞ!」とか「音楽で生きてく? なにをバカなことを言ってるんだ。真面目に勉強しろ」とか、直後に先生から怒られたとしても、真に受けることはないでしょう。だって彼女に、そういわれたんだから。

歌詞をなぞると、主人公の危うさが、手に取るようにわかります。彼女の言動に一喜一憂しています。彼女に、行動を支配されているようなものです。

暗い地ベタを照らしているのは、陽の属性である太陽ではなく、の属性である月です。青春とは何か? という疑問に対する答えが、この一文に集約されているようです。暗く冷たい地べた。照らすのは月。暗い道も、眩しく見えるものも、すべて陰の存在。青春時代を生きる主人公を取り巻く環境すべては、陰のもので構成されているのです



君を知りたい そんなセンチメンタル・デイ

忘れたふりの 全てを捧げる 春の華

青春に関することで、もう一つ思いだしたことがあります。

それは「初恋だけが本物の恋であり、その次の恋からは、初恋をなぞるだけのものである」という言葉です。初恋の相手と、こんなことをしたかった、とか、こう言えればよかった、という想いをずっと引きずりながら、次の、そのまた次の恋をしていくそうです。そして、はじめて恋仲になった人に対して、初恋の時に叶えられなかったことを試みて、達成する、と。

私自身に当てはめてみると、あんまり当てはまらないような気もするのですが、みなさんはどうでしょう? 一般的には、こういう認識なのでしょうか?

まぁ一般的かどうかはさておき、この詞の、「忘れたふりの全てを捧げる春の華」というフレーズには、上記の思想が入っていそうな感じがするのです。

「春の華」は、青春時代に恋をしていた相手、つまり君のことだと思います。この場合は季節の春ではなく、青春の春だとみて間違いはないです。「君」に恋した時代から月日は流れて、「君」のことを忘れたつもりになっていたけれど、でも自分の青春時代、自分のすべてを捧げていた、「君」という女の子は確かにいて、かつ青春時代に「君」に捧げた自分の気持ちというは、いまだに自分の行動の骨格になっているよ、みたいなことを言いたいんじゃないかなと。



どうでしょうか?

センチメンタルという言葉は、今ではあまり使われなくなりましたが、かわりに「エモい」という言葉が使われています。

エモーショナル、つまり感情的な、という言葉だそうです。青少年にしか適用されないセンチメンタルよりも、より広義に使用することができるので、この言葉に取って代わられるのも無理はないでしょう。

でも、だからこそ、センチメンタルという言葉の意味についても、もう一度見つめなおしてみるのもまた、よいのではないのでしょうか。

マサムネさんがしたためた、この詞を眺めることで、エモい感情に浸ってみるのも、いいものですね。




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