風待くだもの店~その3~

更新日:2021年5月29日




岩倉さんに交際を申し込んだその日。

彼女と別れてから駅前を歩いていると、風待くだもの店のシャッターが開いているのを見つけた。

あれだけしつこく調べたのに発見できなかった、風待くだもの店が、今は開いている。

運命的なものを感じた、というのは、さすがに大げさかもしれない。そこまで強い何かを感じたわけではないけれど、少年は、その店に引き寄せられた。

お店の中には、当たり前のように、お姉さんがいた。

美人に見つめられて、少年はとっさに俯いてしまった。だけど、以前ほど余裕がないわけではなかった。今少年の心の中には、岩倉さんがいてくれている。お姉さんがいくら美人でも、お姉さんにどれだけ醜態をみせようと、岩倉さんに必要とされてくれるなら、それでいいのだから。そう、自分を慰めることができた。

少年は、お姉さんに自分から挨拶をするところまで、やってみせた。


「あの……この間は、ありがとうございました。あの果物、すごく美味しかったそうです」


「そう。先生には、喜んでもらえた?」


「いえ、あの、それが……」


言葉に詰まりながらも、なんとか事の顛末を伝えた。

美味しい果物なのに興味も示さず、結局食べられずじまいになった高橋先生の因果応報を伝えたときは、お姉さんは、残念ね、と言いながらも、声を出して笑ってみせた。

澄んだ笑顔だった。

その笑顔を見せられたときは、心が洗われるようだった。話のネタになってくれた高橋先生に、心から、感謝の気持ちを伝えたい気分だった。

それからお姉さんは、少年をカウンターに案内してくれた。


「せっかく訪ねて来てもらったし、ちょっと休憩していく? コーヒーならおごってあげるよ」


と、彼女が誘ってくれた時、少年は自然に頷いていた。


「いつも、おひとりで、果物屋さんをやってるんですか?」


「そうね」


「でも、それだと、あの……お姉さんお一人でお店をするのって、大変ではないですか?」


ん、とお姉さんは考えて、


「お姉さん、っていうのは、言いにくいでしょう? 私のことは、風待、と呼んでね。お店に来てくれるみんなは、そう呼んでるから」


「風待さん、ですか。お店の名前を見てからずっと思ってたんですけど、このあたりでは聞いたことない、珍しい苗字ですよね」


「君は、見た目はかわいい少年なのに、お年寄りみたいなことを聞くのね」


風待さんは、笑った。

笑って、別の話題に移った。

そのため、風待、というのは、このお姉さんの名前なのかどうかまでは、聞きそびれた。

果物が綺麗に見える理由については、いろいろ教えてくれたのに、どうして教えてくれないんだろう、と一瞬思ったけれど、別にどうしても気になることではなかったので、その疑問は次の瞬間には頭の中から消えていた。


風待さんは、カウンターに立って、果物をカットしながら話を続けた。

店は不規則で営業しているという話から、地域の話になり、それを取り巻く農業の話になり、やがては梅の話になった。


「梅が好きなんですね」


と、愚鈍なことを言って、羞恥で顔を真っ赤にしてしまったけれど、


「好きだよ」


と風待さんは、まっすぐに答えてくれた。

その、好き、に込められた想いは、ただ飲食物として好物だというところを超えて、なにか特別な、例えば恋人に対する愛情のような、強さを感じた。


「そうだ、坂谷くんも飲んでみる?」


「えっ何をですか?」


「梅のジュース。私が作ったのよ。美味しいよ? どう? 300円だけど」


「ははぁ……」


少年が真っ先に考えたのは、お金のことだった。

正直、300円は大金だった。さっと出せるお金ではない。

その300円を支払う対象が、梅ジュース、というところもまた、躊躇させた。

少年の顔は、いまいち晴れなかった。梅ジュースは、いちおう、飲んだことはある。

でも、自分からすすんで飲みたいとまでは思ったことはない。

酸っぱいだけのジュースだったから。

いくら風待さんのおすすめしてくれるジュースといえども、題材が梅では、劇的に美味しいものだとは考えにくい。


「いえ、大丈夫です。もうお腹いっぱいなので」


綺麗に断ったつもりだった。

必要のないものを勧められたときには、笑顔を作って断ることが礼儀だと知っている。

この時も、風待さんに礼儀を尽くすために、唇を笑わせた顔を、彼女に見せた。


「ねえ君、今、幸せなんだよね?」


少年の笑顔に対して、なぜか、風待さんは、そんなことを言ってきた。


「えっ……なぜです?」


「なんとなく。なんとなくね」


風待さんは、相変わらず笑っている。

何を思って、そんなことを聞いてきたのかまでは、よくわからない。

いや、本当に、なんとなく、訊きたかっただけなのかもしれない。真意がまったくわからないことを言われて、少年は一瞬何を言うべきか迷ったけれど


「一応、幸せです」


とだけ、無難に答えておいた。

自分が今幸福なのか不幸なのかなんて、考えもしなかった。

もしかすると、幸福とか不幸とか、真面目に考えたことなんて、今までなかったのかもしれない。

だから、答えているようで、答えになっていなかった。

風待さんは、でも、少年の言葉に表情を左右されることはなかった。相変わらず、すべてを見透かしたような瞳で、少年に語り掛ける。


「禍福はあざなえる縄のごとし、という言葉があってね。縄って、二つの縄をより合わせて出来ているでしょう? 幸せだと思っている事柄が不幸をもたらしたり、逆に不幸だと思っていたことが、幸運に結びついたりするんだよ。不思議だよね。不幸なことは不幸、幸せなことは幸せで終わらないことが、世の中の不思議さだなって思うんだ。例えば、坂谷くんが、梅の美味しさを知らないことは私にとって不幸だけど、もし私の梅ジュースを飲んでくれて、梅を大好きになってくれたら、私にとっても、坂谷くんにとっても幸福度がより高くなるよね。梅の美味しさをすでに知っていたら、こんなに幸せを感じることはないからね」


梅ジュース300円の宣伝をしているのではない、ということは、風待さんの息遣いでわかる。

でも、やっぱり、何を言いたいのか、よくわからない。

それでも、風待さんは言葉を紡いでいく。


「どんな不幸も、幸福になる。逆に、どんな幸福も、不幸になる。そうやって世界が回っているんだ。これから大人になるにつれて、だんだんわかってくることだと思う。少しの幸福と、少しの不幸をバランスよく経験して、乗り越えて、少しずつ前に進んでいくのが、ひとという生き物だからね。それでも、もし、自分がとんでもない不幸に陥って、それ以上幸福になれないという状況になったときは……」


「その時は……?」


「幸福になれる扉が、自分の周り以外のどこかにあるから、枠の外に出て、それを頑張って探すの。実は意外と簡単なところにあるものだよ。例えば、この風待くだもの店の入口とかね」


「風待くだもの店の入り口は、扉じゃなくて、錆びたシャッターです。それも、めったに開いていないので、簡単に来れないじゃないですか」


と言おうとしたけれど、少年は口を閉ざした。




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