
こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「魔女旅に出る」について解釈していこうと思います。
この詞は、アメリカのドラマであり「かわいい魔女ジニー」をイメージして作られた曲だそうですが、このドラマは「フルハウス」とか「カリフォルニア・ドリーム」みたいな、ドタバタの日常を描くコメディードラマです。
「このコメディーなドラマの、どこにそんな、悲しい別れを伴うような旅の要素があるのか……」
と、悩んでしまいます。
もっともこの魔女ジニー、作中に消滅の危機があったそうですが、その部分を指しているのかもしれません。
ジニーは正確には魔女ではなく、精霊です。アラジンと魔法のランプにでてくる、ランプの魔人みたいな感じですね。ランプの魔人は願い事を1回もしくは3回だけ叶えてくれますが、ジニーは主人公に恋をしてしまったので、もう何回でも願い事を叶えてくれます。いや願い事を言ってなくても、無理にでも叶えてくれようとしてしまうのです。それが原因で、毎回ややこしいことになってしまう、というわけですね。
とにかく、精霊なので、ジニーには実体がないのです。この世のものではないので、いつかはこの世の理に従って消えてしまう存在なのです。
なので、愛する二人が今後ずっと一緒に暮らしていくために、精霊から、実体のある人間へと生まれ変わる儀式を、この詞の中で行おうとしているんじゃないかなと、私は解釈しました。
つまり、魔女としてのジニーが旅立ち、人間としてのジニーが帰ってくる。そのための旅であるというわけです。
順番に詞を眺めていきましょう。
ほら苺の味に似てるよ
もう迷うこともない
僕は一人いのりながら
旅立つ君を見てるよ
手を離したならすぐ
猫の顔でうたってやる
詞の冒頭に、君の旅立ちはまるで「苺の味に似ている」とのことです。苺は、甘酸っぱい果物です。つまり、「今生の別れ」のような号泣したくなる味でもなく、「辛い別れ」みたいな消化不良になるような味でもないのです。あくまでも甘酸っぱい味なのです。甘酸っぱい、期待と不安に胸を膨らませているような気持ちで、旅立ちを見守っているのです。
「僕は一人いのりながら」と、僕は、君の旅立ちが成功することを祈っています。ということは、成功が確約されているわけではなく、失敗することも考えられるわけです。でも「もう迷うこともない」と、旅立つことを君は決めています。そして、君が旅立つことに、僕のほうにも迷いがない状態になっています。
この一連の流れを見ると、どうでしょう。魔女ジニーの人間転生説が、まあまあ真実味を帯びてくる感じがします。
次の「猫の顔でうたってやる」ですが、これはいったいどういうことでしょう? 猫みたいな顔で歌ってあげることを指しているのかもしれませんし、あるいは本当に猫になって歌うことを指しているのかもしれません。
ジニーがもし人間になれず、別の世界に行ったまま帰ってこれなくなったら、つまり現実世界から「手を離したなら」、僕は「すぐ」に、後を追いかけて別の世界にいくよ。その世界では人間でいられないのなら、猫になって、ずっと君の隣でうたっていてやるよ、ということを言いたいんじゃないのかなと。
こう解釈すると、あくまでもこの旅立ちは、二人がずっと一緒にいるために行うものなのです、ということが伝わってきます。
ラララ 泣かないで
ラララ 行かなくちゃ
いつでもここにいるからね
上記の解釈をするなら、「ここ」とは、君の隣という意味になります。ここで待ってる、のではなく、ここにいる、のです。
また、もしジニーの転生が失敗したら、自分もジニーの後を追いかけて、猫になって、別世界で生きることを覚悟しています。ジニーだけに覚悟を押し付けているわけではないのです。無責任に、「泣かないで、いかなくちゃ」といっているわけではないのです。
こういう背景があるとしたら、けっこう切ない場面だと思います。
今ガラスの星が消えても
空高く書いた文字
いつか君を照らすだろう
歪んだ鏡の向うに
忘れてた道がある
さあ まだらの靴を捨てて
ここは、解釈がとても難しい場面です。「ガラスの星」とは、たぶん君の瞳の中であふれそうになっている涙のことです。星を指しているのではないのです。一方で次の「空高く書いた文字」は、星と星を繋げてできた文字のことだと思います。星座の、文字バージョンです。つまり、星のことを指しています。星ではないものを星と表現し、星を星ではないものに言い換えているのです。
これは、現実世界と、別の世界の往還を表現しているんじゃないかなと思います。ジニーが旅立つのは、現実とは別の世界なのです。
また、「歪んだ鏡」と、「まだら」もまた、リンクしています。鏡が歪むのは、鏡を構成している物質の濃度が均等でないから、つまり、まだらになっているからです。
つまり、「歪んだ鏡」の先にいくには、ちゃんと歪んでいない鏡にしなくてはいけません。現実を魔法で歪ませることができる、歪んだ今のままでは、これ以上未来に進むことができないので、「まだらの靴を捨てて」つまりジニーは魔法を捨てて、ただの人間にならなくてはいけない、ということが、ここで語られているのではないのかなと思います。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
「スピッツの詞は、適当に無意味な言葉を並べているだけだ。読み手はそれを、勝手に解釈しているだけだ」という悪口を、これまでよく見聞きしてきました。「魔女旅に出る」は、そんな意味不明なスピッツの詞の中でも、とくに意味不明な部類に入る曲だと思います。
私はスピッツの17番目のアルバム「ひみつスタジオ」が出た頃ぐらいからスピッツの歌詞解釈をはじめました。最新のアルバム付近の曲からはじめて、それから時代を遡るようにして解釈を進めてきました。セカンドアルバムに収録されているこの詞を解釈している時点で、もうほとんどの詞の解釈は終わっているのです。そんな私に言わせると、私の解釈が合っているかどうかは不明ですけれども、意味不明な詞は、ただのひとつもありませんでした。どの詞も、何かしらの意味を抱えているのです。そう解釈できます。
こんな風にして、私は、無理やり解釈することで意味を見出し、スピッツの詞を「意味不明」と笑う人々に対して、反駁したつもりになっていました。
が、しかしながら、スピッツの詞を好きな人の中には、「無理矢理解釈しないで欲しい。マサムネさんの詞は神様の領域にあるものなので、下界の言葉に直さないで欲しい」という意見もあります。
私は、その意見に対しては、恥じてうつむくしか術がありません。
「魔女旅に出る」は、まさしく、マサムネさんの才能が爆発していた頃に作られた、もっとも濃度が濃い曲です。同じく神の領域にいる藤井聡太棋士は、この曲を、数あるスピッツの曲の中で一番好きだと明言しています。神様にもっとも近づいた人が作り、神様にもっとも近づいた人が愛した曲なのです。彼らに比べるまでもなく、なんの才能も持たない、いち八百屋さんにすぎない私には、この曲を彼らほど理解することはできないのです。
私の解釈など、曲の表面の薄い部分をなぞっているだけなのです。表面を薄くなぞっただけで、曲全体を理解したつもりになっているわけです。こんなに滑稽なことはありませんね。
「魔女旅に出る」の詞を無理矢理解釈してはみたものの、詞が秘めている本当の底知れなさは、私の解釈の及ぶところではない。と、私はそういうふうに思っています。
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