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スピッツ「春の歌」は、過去のマサムネさん自身に向けたメッセージ説。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「春の歌」について解釈していきたいと思います。

みなさん、春の歌、って言葉を眺めたとき、たぶん「春」のほうに注目すると思うんですよ。学校で春の歌として習うのは、滝廉太郎の「隅田川」でしょう。「春のうららの隅田川」ってやつですね。これが、ザ・春の歌だ、という感じで。他にも松任谷由美の「春よ、来い」とか。どちらも、「春」というものを強烈に感じる曲となっております。他にも、「サクラ」と名の付く曲は大量にありますが、どれも春を強烈に感じさせる曲ばかりだと思います。春の歌として連想させる曲というのは、どれも「春」がテーマの曲なのです。

なので、スピッツの「春の歌」もまた、「春」ばかりに焦点を当てた曲だと、固定概念のため思い込まさせているのではないのでしょうか?

テレビ番組とかで「春に聴きたい曲ランキング」とかがあった時、この曲がチョイスされる場面が、何度かあったように思います。

しかしながら、私はこの曲は、どちらかといえば「春」ではなく、「歌」のほうに焦点が当たっている曲だというふうに解釈しています。

ようは、アーティストであるマサムネさんと、彼が作ってきた曲たち、彼が歩んできた道のりが、この詞のテーマなのです。

そして、「春」とは、暦上での春のことだけを言いたいわけではないと思うのです。この曲を、暦上の春の歌として解釈しようとしたら、どうもよくわからない部分がでてきますよね。隅田川とか沈丁花とか、春っぽいワードも出てきませんし。

じゃあ、「春」って何なのか、と思った時、ここで、私の頭の中でカチーンと点と点が繋がった気がしました。


「春」には、暦のほかに、いろんな意味があります。

1,暦。3月、4月、5月。

2,新年。新春

3,思春期。青春。

4,人生の最盛期。「わが世の春だ」

5,苦しくつらい時期の後に来る楽しい時期。「プラハの春」

6,性行為。春画。


国語辞典的な意味でいうと、春にはこのように複数の意味があるのです。じゃあ、スピッツの「春の歌」に該当する春の意味は何か、と考えた時、これ全部該当しているんじゃないかなぁ、と私は気が付きました。

マサムネさんのアーティスト人生は、春、のひとことで表すことができる、と、私は思いました。それに、マサムネさんもまた、そう考えたんじゃないかなと。それが、「春の歌」を制作するきっかけだったんじゃないかなと、私は想像しちゃったのです。

1,2,については、はじまりの季節、と読み替えることができます。新年は一年のはじまりですし、3月からは新芽が芽吹く時期で、生命にとってのはじまりの季節ですよね。これを、マサムネさんに当てはめると、「ここからはじまるんだ、まだ俺のアーティストとしての人生ははじまったとこだ」と言っているように思えます。

3,については、もうそのまんまですね。この曲を通じて、マサムネさんや、スピッツのメンバーが青春しているのを、私たちは聴いているのです。春の歌は、アクエリアスのCMに起用されたりしましたが、それもこの曲に青春っぽさを感じたからでしょう。

4,5,についても同意できます。スピッツは「ロビンソン」の大ブレークまで、長い長いトンネルをくぐっていました。この時期を乗り越えて今があるのです。今では、大勢のファンが彼らの音楽を聴くためにコンサートに詰めかけています。一公演に何千枚単位で発行されるチケットを争奪しているのです。

6,については、彼らなりのロック、と読み替えたいです。彼らの原点は、インディーズ時代に手掛けた「おっぱい」や「惑星S・E・Xのテーマ」といったものに込められています。彼らの原点が「性と死」にあった頃に焦点を当てたのが、春の歌なのだ、と解釈すると、ズッシリくるものがあります。


どうでしょう?

これら、全部の意味がこめられたのが、春の歌だ、というふうに眺めてみると、あまりよくわからなかった詞も、途端に理解できるようになるのではないのでしょうか。

順番に歌詞を眺めていきましょう。




重い足でぬかるむ道を来た トゲのある藪をかき分けてきた

食べられそうな全てを食べた

ここは、「ロビンソン」でブレーク前の、マサムネさんが舐めていた辛酸のことだと思います。「どうして売れないんだろう…?」と悩んで悩んで、折れそうになる心を必死になだめていた頃です。食べられそうなものを全て食べる勢いで、自分たちの音楽を見つけるべく、いろいろ試行錯誤していました。いろいろ試すものの芽が出ない、まさにスピッツの冬の時代です。



長いトンネルをくぐり抜けた時 見慣れない色に包まれていった

実はまだ始まったとこだった

そんな長い長い冬の時代は、「ロビンソン」で終わりました。トンネルを抜けた先は、熱のこもった大観衆の声援と、多くのスポットライトという、見慣れない色でした。「ロビンソン」でのブレークは、彼らの旅の終わりではなく、旅の本当のはじまりだったのです。



「どうでもいい」とか そんな言葉で汚れた

心 今放て

ここで「どうでもいい」と諦めてしまっていたことって、なんでしょう? 何かのインタビューにて「いろいろ捨てたものはいっぱいあるよね」と、マサムネさんか、もしくはリーダーの田村さんが言ってたのを見聞きした覚えがあります。アルバム「インディゴ地平線」とか、「隼」あたりの、今となっては比較的初期の頃には、もうそんなことを言ってました。その捨てたものの一つに、「性愛」は確実にあると思います。「性愛」をテーマに掲げることは、もともと彼らの曲づくりの中心だったはずですが、これでは大衆受けしない、と判断して、この頃の曲には影を潜めてしまいました。ゴミ箱に突っ込んで封印したのだと思います。

「性愛なんて、もうどうでもいいよ…」と、初期の頃に持ち合わせていたロック魂そのものを封印して、大衆受けするさわやか路線という、ある意味邪道に足を踏み入れて、自分たちの音楽とは違う何かをやりはじめていたのではないのでしょうか。

そんな封印していた心を、「今放て」と、自分の心に命じています。



春の歌 愛と希望より前に響く

聞こえるか? 遠い空に映る君にも

上記の解釈を参照するなら、ここでの「春の歌」に代入する意味としてもっとも適当なのは、「性行為」という意味になります。性愛だ!ロックだ!ということです。「わざとらしい、大衆受けする愛とか希望とかよりも、性愛を歌いたいんだよぉ!」と叫んでいるような、そんな情景が浮かんできます。

いやいや、やっぱり、「性愛」に限定しなくてもいいと思います。スピッツの、草野マサムネの遍歴を思い起こせば、1~6のいずれも当てはまるでしょう。

そしてそれを、マサムネさんは誰に一番聴かせたいかというと、過去に悩んでいた自分自身のはずです。つまり、「遠い空に映る君」とは、遠い日の自分自身だったのではないのでしょうか。

自分のロックの根幹であった、性愛をテーマにすることすらも捨ててまで、方向性を暗中模索していた過去の自分。そんな自分に対して、「俺たちは今、とんでもなく青春しているぞ。冬の時代の君よ、俺の今の姿をみてくれ! 今の俺なら、どんな曲でも自由に描けるし、ファンのみんなが受け止めてくれるぞ!」と、自分自身を慰めている。そんな光景が思い浮かぶようです。



平気な顔でかなり無理してたこと 叫びたいのに懸命に微笑んだこと

朝の光にさらされていく

「平気な顔でかなり無理してたこと 叫びたいのに懸命に微笑んだこと」が、日の当たらない時期のスピッツだとするなら、「朝の光」とは、こんにちの日の当たる場所にいるスピッツのことでしょう。

「朝の光」は、1、または2、の「春」の意味と重なります。



忘れかけた 本当は忘れたくない

君の名をなぞる

この詞での「君」とは、過去のマサムネさんのことでした。そして、過去のマサムネさんが目指していたものといえば、「性愛」がテーマのロックでした。

これを「忘れかけた 本当は忘れたくない」つまり、原点を忘れたくない、と思っているのではないのでしょうか。



春の歌 愛も希望もつくりはじめる

遮るな 何処までも続くこの道を

ここもまた、「春の歌」つまり「原点!」と言っています。原点から派生して、愛とか希望とかといった、いろんな曲が作られていくのです。

過去にマサムネさんは、原点を捨てて、愛も希望も作ろうとしました。でもそれは、いわば付け焼刃です。そんな心の持ちようでは、心がこもっていないと見透かされてしまうのです。中身のない人間が愛とか希望とかについて知ったかぶりをしているようで、薄っぺらいのです。そう、マサムネさん自身感じているようです。

そうではなく、断固たる土台としての原点があってこそ、愛とか希望とかといったものが、自由自在に作れるようになるのです。そう、大ヒットを経験した今の視点で、やっとわかった、ということなのだと思います。

だから、「この道を遮るな」と、過去の自分に言っています。「君の性愛から始まったその道は、愛にも希望にも通じているし、この先どこまでも続いているのだから」と。



歩いていくよ サルのままで孤り

幻じゃなく 歩いていく

「サル」という動物のチョイスもまた、「性愛」の雰囲気が漂います。性的にだらしない人のことを「サル」と例えられたりしますが、マサムネさんは自分のことを、そう卑下している部分なのではないかなと。「俺はやっぱり、エロいままで、この長い長い道を歩いていきます」と、言いたいんじゃないかなと。

長いトンネルの中でもがいている過去のマサムネさんから見たら、「性愛」を原動力にして曲を作っている今のマサムネさんを、「幻」と映るかもしれません。封印したはずの性愛で詞を描き上げる今のマサムネさんをみたら、仰天するかもしれません。そんな彼を、励ましています。「この道は幻じゃないぞ。俺はこの道を歩いている。だから君も歩いていくんだぞ」と。




という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?

いやいや、解釈はわりとすぐに思いついたのですが、言葉がとても難しいですね。まさか、「春の歌は、エロい部分もある曲です」だなんていきなり始めるわけにもいかず……。ちゃんと春の歌を、誤解なく読み解いてもらうには、かなりの言葉を尽くす必要がありました。いや、それでもまだ、伝わりきらない部分があるかと思います。マサムネさんが歩んできた道のりとか、その時その時どう考えていたかとか、そういう前知識がないと、やっぱりこの解釈は難しいかもしれません。私は、しっくり来たんですけど、やっぱりしっくり来ない人もいるでしょう。なにより、あの青春ど真ん中みたいな認識をされていた春の歌が、実は性愛を表した曲だったという解釈は、許せないかもしれません。私は誰かに怒られるかもしれません。

それでも、私は「春の歌」の芸術性に感嘆せざるを得ないのです。春という言葉がもつ意味を、こんなに何重にも使って表現できる人って、日本中探しても草野マサムネぐらいしかいないと思うのです。春の歌は、まさにマサムネさんの人生そのものを表した、マサムネさん専用の曲だと思うのです。



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