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スピッツ「夜を駆ける」は、テロを題材にした話というのは、有名な話ですか?~スピッツ歌詞解釈~

更新日:2023年7月22日



「夜を駆ける」は、アルバム「三日月ロック」に収録されている楽曲です。

三日月ロックの発売は、アメリカ同時多発テロのちょうど一年後の、2002年9月11日。マサムネさん自身も「このアルバムは911テロに影響を受けた」と語っているようです。この発売日を意識していることからして、マサムネさんから「911テロに対する思いを、楽曲から汲み取ってくださいね」と言われているかのようです。

そんなアルバム「三日月ロック」の最初に収録されているのが、この「夜を駆ける」という曲です。

アルバムの方向性を示す1曲目に、テロに対する描写を隠すことなく表現したこの曲を位置付けたのは、相当な覚悟があったのでしょう。



当時の私は大学生。その頃私が聴いていた曲は、といえば、アメリカのフォークソンググループの、ピーターポールアンドマリーでした。彼らは反戦や貧困など、社会問題をテーマにした楽曲を多く扱っていて、それが当時の私の心を掴んでいました。一方で、愛だ恋だ、アナタがいないと寂しくて泣きそう、とばかり歌っている日本の音楽が、食傷気味になってきていました。

スピッツもまた、頑固に恋愛のことだけを表現していて、それはそれで芯があってすごいなと思う一方で、あまり聴かなくなっていたころだと思います。とはいえ、ファーストアルバムの「スピッツ」から、前作のアルバム「ハヤブサ」までの楽曲すべて、歌詞を暗記するぐらいは聴きこんでいましたが…。

とにかく、スピッツは、恋愛の曲を作るのが得意なグループで、恋愛のこと以外は、曲にしない。マサムネさんは、きっとそう決めているに違いない。だから、今までの曲は恋愛に対して純粋で、綺麗で、丁寧であり続けることができた。なぜなら、恋愛に対してとてもストイックな姿勢を貫いてきたから。だから、ほかのテーマで曲を書くことなんて、今後もないだろう。これからもずっと恋愛の曲を描き続けるのだろう。

そう思っていました。「夜を駆ける」を聴くまでは。



なぜ私が、「夜を駆ける」を、911に関連した曲なのだと想像できたのでしょうか。

「夜を駆ける」の感想を眺めていると、「男女が夜にこっそり会っている曲だ」とか「夜のバーで、君にハートを撃ち抜かれた曲だ」とか、まぁそんなイメージを持たれる方が多いようです。確かに、そんな風にも見えます。いや実は、本当にそのつもりでマサムネさんは仕上げたのかもしれません。

でも、「三日月ロック」の発売当時に、「夜を駆ける」に触れたことのある人なら、「あぁこれはテロのことを表現しているんだな」と思う人のほうが多かったのではないのでしょうか。

悲惨すぎて、そう考えたくなくて、「これは逢引の現場を表現した曲なんだ」などと解釈して、自分の心の奥底に、テロに対する感情を封じ込めてしまった方もいると思います。

逆に、若い人や、のちに「夜を駆ける」を知った人なら、逢引の曲だと自然に解釈するでしょう。大筋では、男女が出会う話であり、多少不自然な箇所があったのしても、マサムネさんの表現の独特さ、難解さはいつものことですからね。それほど違和感なく、この曲を楽しむことができると思います。



しかしながら、今回は「夜を駆ける」を、テロに対する曲として、解説していきたいと思います。

はたして、どんな解釈になるのでしょうか。

「夜を駆ける」を読み解くことで私が感じた、マサムネさんの、テロに対する想いとは、いったいどういうものなのでしょうか。



「研がない強がり嘘で塗りかためた部屋 抜け出して見上げた夜空」

最初に定義してしまいますが、この曲の舞台は、中東だと私は思います。たぶんアフガニスタンか、イラクか、イランです。そして、「僕」はマサムネさん自身だとは思いますが、「君」はそこに住んでいる現地住民の人でしょう。理由は、後半ででてきます。

そして、「嘘で塗り固めた部屋」というのは、たぶん日本のことです。911のテロが起こったとき、日本のメディアは、イスラム教は野蛮な宗教で、アメリカはその被害者になった、という報道をしきりとしていました。実際はそんな簡単な話ではなく、もっと事態は複雑なのですが、主題がそれてしまいますから、ここでは語りません。とにかく、メディアは、日本の世論に、イスラム教は怖い宗教だ、という意識を植え付けることに成功しました。

嘘で塗り固めた部屋の中に閉じこもっているうちは、そこが嘘で塗り固めた部屋だと見抜くことは難しいです。そこで見聞きする情報がすべてですからね。

そんな日本の外にでて、現地の人に会ってみたい。そういう意識がマサムネさんにあったのだと思います。遠く離れた国ですが、空を見れば、同じ夜空が広がっています。同じ星の下にいます。現地にいる「君」と同じ夜空を眺めることで、マサムネさんは、彼女と交信を試みたのだと思います。



「よじれた金網をいつものように飛び越えて 硬い舗道を駆けていく」

「よじれた金網」は、戦争のない、平和な国ではほとんど見かけることがありません。また、舗道をわざわざ「硬い」と表現するのも、砂や砂利でできた、未完成の柔らかい舗道もあるからなのでしょう。

ここでの目線は「君」に移っているようです。マサムネさんは、そんな頻繁に金網を飛び越える必要のある場所に住んでいないでしょうから。



「似てない僕らは細い糸で繋がっている よくある赤いやつじゃなく 落ち合った場所は大きな木も騒めきやんで 二人の呼吸の音だけが染みていく」

似てない「僕」と「君」は、想像力の中で出会うことができます。細い糸は、運命の赤い糸ではないとはっきり断りをいれてきています。じゃあ電話かな、と思ったんですけど、2000年のはじめの頃は、まだ携帯電話が普及しはじめたばかりで、国際電話なんてとても気軽にできませんでした。スカイプもラインもないころです。インターネットだって、ダイアルアップ接続だったのですから。何言ってるかわからないって? まぁとにかく、電話ではないと思います。

となると、もう心の通信をしているとしか、捉えようがないですね。僕が君を想い、同時刻に、君が僕を想う。そういう時間を設けていたのだと思います。あるいは、「君」というのは、マサムネさんの空想の中にいる人なのかもしれません。空想の中にいる人と落ち合い、彼女との会話を通じて、彼女の呼吸を感じている。そういう状況なのだと思います。



「君と遊ぶ 誰もいない市街地 目と目が合うたび笑う 夜を駆けていく 今は撃たないで 遠くの灯りの方へ駆けていく」

心の交流を通じて、遊んだり、笑ったりしている。

でも、その一方で、市街地には誰もいない。つまり戦火に焼かれて、住民は死に絶えているということです。なおかつ、住民を死に至らしめた銃口が、なおも誰かを死傷させようと、建物の影から狙っている状況なのです。

極限の状態で、遊んだり、笑ったりしているわけです。ドラマチック、とでもいいましょうか。当事者にとっては、到底、そんな簡単に言い表すことのできない状況でしょうけれども。

話し合いを、とか、平和的解決を、とか、そういう大きなことを言いたいわけではありません。この曲は、シュプレヒコールではないですし、そんな役割を果たそうなどとは、微塵も思っていないでしょう。ただ、ここでの望みは、この自分と心の通信をした彼女に、無事に生き延びてほしい。ただそれだけを願っています。

彼女が夜を駆けていくのを、今だけ、撃たないでくれ。

それだけを願っているのです。



「壁の落書きいつしか止まった時計が 永遠の自由を与える 転がった背中冷たいコンクリートの感じ 甘くて苦いベロの先 もう一度」

「夜を駆ける」を、「愛の歌」と捉えているうちは、解釈に迷う、謎の部分だと思います。まるで、別々の場所から切り取られて、ツギハギされた言葉の羅列のようです。何をイメージしたものなのか、よくわかりません。

しかしながら、これに「中東」というテーマを当てはめてみると、途端に解読できるようになります。

中東の「壁」といえば、聖地エルサレムの嘆きの壁が真っ先に思い浮かびます。そこに「落書き」をする、つまり、相手の宗教を汚す、ということを表しています。これは血で血を洗う戦争です。そして「いつしか止まった時計」は死のことで、その死が、「永遠の自由を与え」てくれる。たぶんこの表現は、「ジハード(聖戦)」のことを指しているのかなと。イスラム教では、戦争で戦って死んだものは、天国にいき、そこでは豊富な食事と、大人数の女性、召使いが用意されていて、それはもう、永遠に不自由しないほどだ、とされています。

後半の内容も、同じことの繰り返しです。「転がった背中冷たいコンクリートの感じ」とは、転がった背中の持ち主は、戦って力尽き、すでに遺体となっています。そして天国に行き、肉や酒などの食事に、舌つづみをうっているという状況を表しているのではないのでしょうか。

そして、「もう一度」に驚かされます。長い歴史の中、ずっと繰り返されてきたジハードが、もう一度起こった、ということです。それが、次のサビに続いています。



「でたらめに描いたバラ色の想像図 西に稲妻光る 夜を駆けていく今は撃たないで 滅びの定め破って駆けていく」

「でたらめに描いたバラ色の想像図」は、誰によるものでしょう。これはアメリカですね。自分たちに都合のいいように、中東を支配できると安易に考えていました。その驕りが、テロという事態を招いたともいえるでしょう。

「西に稲妻光る」これは、アメリカの同時多発テロそのものを表しています。私たち日本人がいつも見ている世界地図は日本が中心ですが、本来はイギリスが中心です。イギリスから見ると、日本は極東にあたります。中東、という言い方も、イギリスからみると、そう見えるわけです。

そして、イギリスから西が、アメリカです。中東にとっても、アメリカは西です。大西洋の向こう側にある国です。

一方で、日本からは、東になります。最初に定義した、この歌詞の舞台は中東だという根拠は、まさにこの部分にあるわけです。

アメリカに、テロ組織は稲妻を落としました。それにより、アメリカ国民を、それ以降の先の見えない対テロ戦争へと駆り立ててしまったわけです。

こんな状況において、滅びの定めを破るのは、並大抵のことではありません。「今は撃たないで」も「滅びの定め破って駆けていく」のも、夢物語かもしれません。でも、それしか願うことしかできない、という苦しい想いが、ここに表されています。



こんな感じで解釈してみましたが、いかがでしょうか。

正直、書いてて苦しくて、まったく筆がすすみませんでした。

できるなら、あまり書きたくなかった、というのが本当のところです。疲れるし、間違っているかもしれないし、恨みを買うかもしれませんし。いいことあんまりないですね。

でも、この項を書いてて思ったのが、マサムネさんは、ちゃんと主張したいことは主張するんだなぁ、ということです。

本人の口からは、絶対にそんなことを聞くことはないのでしょうけれど、歌詞に対しては、本当にストイックです。伝えるべきところは、余すところなく、全力で、描き切っています。ここまで表現してくるなんて、思ってもみませんでした。

戦争において、どちらが善でどちらが悪か、という話では、もちろんありません。それを論じないという線引きをしているのも、スピッツらしいと思います。

何の力もない私たちにとっては、戦火の渦中にいるひとに、銃口を向けないでくれ、というのが、精いっぱいです。

「今は撃たないで」

これしか言えない、という悲痛な気持ちが、この曲のすべてだと思います。


どんなテーマであろうと、マサムネさんらしい感性と優しさは、いささかも失われていません。

それを確認できるのが、「夜を駆ける」だと思います。




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