
こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「トンビ飛べなかった」について解釈していきたいと思います。
この曲は、大変申し訳ございませんが、エロい方面の解釈となりますため、18禁となっております。18歳未満の方は、みないようにお願いいたします。あっ、エロが苦手な人、下品な話が苦手な人も、どうぞこの先はご遠慮くださいませ。エロが苦手なアナタが望んでいるものは、この先には何もございません。どうぞよろしくお願いいたします。
そう言われると、気になっちゃいますか? 確かにグーグルが所かまわずエロ広告を垂れ流している現代において、たかが八百屋さんのブログを見るなと注意しても、何の効果もないでしょう。
とはいえ、誰か知らない人の裸をみるのと、自分の尊敬するアーティストの裸をみるのとでは、衝撃度が違うでしょう。注意をきかずに先を読んで後悔して、泣きじゃくってる人もいました。あの子の心の中には、ずーっとこの先も、トラウマとして残り続けるのです。
ありがたいことに、私のブログは解釈の解像度が高いと褒められることが多いのです。でもこの解像度の高さが、かえって悪い影響をもたらしてしまうのです。いい曲に浸っていたいのに、私のブログのことが頭から離れなくて、もう昔みたいに聴けなくなった、なんてことになるのは、私もいちスピッツファンとして辛いのです。
私がこの先にいかないようにアナタを引き留めているのは、意地悪からではなく、親切心からです。これから先は、人間の男性がもつ愚かな部分、醜い部分に触れていくことになります。それを知ったところで、アナタの人生の役に立たないばかりか、かえって邪魔になるおそれがあります。
そもそもですけど、私の解釈が間違っていることもあるではありませんか。解釈が間違っているうえ、頭から離れないなんて、最悪ではありませんか。
そういう感じなので、どうぞこの先にいくのはご遠慮いただきたいと思います。どうぞこのブログから離脱してくださいませ。どうぞどうぞ。
さてさて。
この曲は、マサムネさんの正直な気持ちが現れた、めっちゃ面白い曲だと思います。
まあ私もエロが苦手なので、どこまでこの詞の世界を描けるかは疑問なんですけど、でもめっちゃ面白いと思うので、頑張って解釈してみたいと思います。
というのも、マサムネさんはデビューして以降、どんなふうに自分を見せたいかを意識するあまり、詞の内容が固くなりすぎている部分があると思っています。素の自分ではなく、演出した自分を見せようと、しすぎているんじゃないかなと。
そりゃあ、土付きの大根よりも、ちゃんと調理された温かいおでんのほうが美味しいに決まっていますし、客もそれを求めていることを知っています。なのでマサムネさんは大根を美味しく調理して、提供してくれているのです。
とはいえ、私のような、生の土付き大根のほうにも魅力を感じる八百屋さんだって存在するのです。マサムネさんが経営するおでん屋さんで、おでんを食べて、「これは美味しい!ぜひこの大根がどこのものか教えてくれ」と私が要求した時、マサムネさんは「なんだこの客」みたいな不審な顔をしつつも、バックヤードから、調理前の生の大根を持ってきてくれて、私にくれました。それが、この詞だと思うのです。
生の大根をみた八百屋さんのような面白さが、この詞の最大の特徴だと、私は思うのです。
どういうことなのか、さっぱりわからないって?
うーんそうですよね。じゃあ実際に詞の順番に眺めていきましょう。
独りぼっちになった 寂しい夜 大安売り
ここは、マサムネさんが彼女と別れたところです。「独りぼっちになった」ので、「寂しい夜」になりました。
しょうがないので、代わりに誰かと一緒に過ごしたくて、「大安売り」しようとします。「いまなら僕の隣、空いてるよ~誰か欲しい人いませんか~今なら大変お買い得」と、知っている女の子に、片っ端から声をかけようとしています。
ちょっとたたいてなおった
でもすぐに壊れた僕の送信機
「僕の送信機」とは、「大安売り」を知り合いの女子に向けてご案内しようとする僕の気持ちのことだと思います。僕は電話を片手に持って、知り合いの女の子の電話番号が書いてあるメモ帳を開きますが、でも、いざ電話をかけようとしても、その気になれません。彼女との別れが悲しいあまりに、気持ちが萎えてしまっているのです。
「しっかりしろ! 次の女性を探すんだよ!」と自分で自分を鼓舞します。この時代は今と比べて、女性に対して未練がましいのは悪徳とされていました。女々しい、とされていました。フラれたら、次のオンナに次々といくのが、いいオトコなのです。マサムネさんもまた、いいオトコであろうとしていたのでしょう。
そうやって、バンバン、と自分を叩いて気持ちを鼓舞してみますが、「でもすぐに壊れた」そうです。
「やっぱり僕は、彼女じゃないとダメなんだよ……」と、がっくり心が折れてしまいます。彼女も追えず、次にも行けず、どうにもならない状態になってしまいます。
枕の下に隠れてる君を探してた
ここです。これは、何を探しているのでしょう?
もちろん、本物の君ではありません。本物の君とは、さっき別れてしまいました。そもそもですけど、本物の君ではない君を探して、何をしようとしているのでしょう?
これは、たぶん自慰行為をやろうと思っています。
たぶんもう少し解説が必要だと思うんですけど、エロが溢れている現代と違って、昔は何もなかったのです。インターネットもスマホもない時代なので、検索すれば女性の裸がお手軽に見れるような環境ではありませんでした。ビデオさえ、まだまだ未発達でした。映画「リング」の呪いのビデオにて、井戸から貞子が出てくるシーンをアナタは観たことありますか? 当時はすべてのビデオの画質が、あの呪いのビデオと似たり寄ったりだったのです。そんなビデオでさえ、当時は最先端でした。
また週刊誌が今と違って爆発的に売れていたのは、袋とじに女子大生を自称する女性の裸が、カラーで載っていたからです。それまでのエロ雑誌といえば白黒印刷だったので、当時としては革新的な技術だったのです。そんな雑誌に取り上げられていたモデルといえば、今みたいに若くて綺麗なアイドルみたいな女子ではなく、だいぶお年を召した不細工な方がセーラー服などを着て、頑張って若作りをしているような人でした。そういう雑誌を、この頃の若い男性はこぞって買い求めていたのです。当時はこうした粗悪品しかなかったのです。
マサムネさんみたいに、同年代の若いピチピチした女性たちにモテる人にとっては、こうした雑誌に載ってる女性の裸なんて、わざわざ見る必要がないのです。女性と交際したことのない私のようなモテない男性ならともかく、何が悲しくて、セーラー服を着たご年配女性の写真を、高いお金を出して購入しなければいけないのか。そんな気分になっていたことでしょう。
生身の女性とは別れてしまった。でも雑誌などでは気分が乗らない。
なので、彼女の裸を想像しながら、自慰行為をすることにしたのです。自分のベッドの上で寝転んでいる、裸の彼女を想像したのです。当時としてはこれが、最良の方法だったのです。
もしくは、枕の下に彼女の写真が隠してあったという意味なのかもしれません。当時の男性の枕の下には、たいてい先ほどのような自称女子大生のエロ本が隠されていましたが、マサムネさんは代わりに彼女の写真を置いていたのかもしれません。それを知ってた彼女は、別れ話の後、こっそり持ち去ってしまったのでしょう。枕の下に隠しておいたはずの写真が見つからず、「あれ? あれ?」と焦っている様子が、「探してた」ということなのかもしれません。
とにかく、自慰行為をするにあたって、エロ本とかスケベ動画とか、いわゆる触媒になるものが全然ない状態で、はじめなければいけないという状態だったのです。
トンビ飛べなかった 今日も見えなかった
のんきに背伸び ふやけた別れの歌
トンビは、「ピーヒョロロロロ」と鳴きます。「トンビ飛べなかった」における「トンビ」とはつまり、男性の射精を表しているのだと思います。出る時には「ピーヒョロロロロ」と出ます。
ところが、「跳べなかった」とのことです。
その後に続くのは、「今日も見えなかった」とのことです。上の内容から判断すると、ここは「彼女が自分に対して、性行為用の痴態を晒してくれている姿が、この時の精神状態では再現できなかった」ということになると思います。
もちろん、通常のマサムネさんでしたら、易々とやってのけることができたでしょう。この時代の男子は、だいたいそうしていたのです。ましてや、強い想像力の持ち主であるマサムネさんです。できないはずがないのです。
でも、「今日も見えなかった」のです。ここ最近は、ずっとできない状態なのです。なぜかといえば、彼女と別れてしまったからなんですよね。別れたのが悲しすぎて、ショックすぎて、もはや彼女と性行為をする場面なんて、想像ができなくなっているのです。彼女のことを想像しようとすれば、彼女が最後にめっちゃ怒っていたこととか、悲しんでいたこととかが、最初に思い浮かんでしまうようになってしまったのです。
「のんきに背伸び ふやけた別れの歌」ですが、これは自分の男性器のことだと思います。彼女と性的なことができていない状態が続いているため、欲求は溜まっています。いちおう、生理現象でムクムクとはしますけれども、完全に固くなりません。ふやけているのです。心が傷ついているせいで、どうにもならない、つらい状況なのです。
つぶされかかってわかった 優しい声もアザだらけ
やっと世界が喋った
そんな気がしたけどまた同じ景色
正義のしるし踏んづける もういらないや
ここは、自分の愚かさを嘆いている部分なのかなと。誰もがうらやむような、容姿も性格も完璧な彼女と出会い、交際し、性行為までしたことで、マサムネさんは世界のすべてがわかったつもりになっていたのです。「真実の愛」とか「本当の愛」みたいなことを、わかったつもりになって、得意げになって、まわりに言いふらしていたでしょうし、自分の曲の詞にもしたことでしょう。自分は真実の愛を見つけたので、極上の彼女を手に入れることができた。ひとにはわからない領域のことまで理解できる、素晴らしい才能の持ち主なのだ、と、思っていたのです。
でも「つぶされかかってわかった」とのことです。この、完璧だと思っていた彼女に愛想をつかされて、別れるハメになってしまいました。マサムネさんが持っていた愛に対する自信は、粉々に打ち砕かれました。それでやっと、自分が理解していた「真実の愛」とやらが、ただの幻想だったことを知ったのです。アーティストとして研鑽を積み探求してきたことで、自分だけが見えるようになった特別で美しい世界。そう思いこんでいた世界なのに、実は、ただの一般人が見ている景色と、まったく同じだったのです。
その悲哀が、「やっと世界が喋った そんな気がしたけどまた同じ景色」という、途方にくれているような言葉で表されています。
「優しい声もアザだらけ」なのは、マサムネさんが愛だと思い込んでいたものが、彼女を傷つけていたからです。「正義のしるし」を後ほど踏んづけていますが、自分が正しいと思って、彼女のためを想って言っていたことが、彼女を傷つけていたのです。「部屋汚いね、掃除したら?」とか「その服ダサいよ」とか「太った?」とかでしょうか。美しさを求めることは、正しいことです。ましてやアーティストなら、なおさら美しさに気を配ることを求められるし、求めるでしょう。そうした正義を、彼女のために、振りかざしたのです。彼女を言葉で殴って、アザだらけにしたのです。
アザというのは、内出血のことです。皮膚は傷ついていないけれど、皮膚の内側はしっかり傷ついているのです。マサムネさんからしてみたら、正論をぶつけた時の彼女は傷ついていないように見えたことでしょう。でも、しっかり傷ついていたのです。アザだらけになった彼女は「もういいよ。付き合ってられないわ」とマサムネさんから離れる決意をしたのです。
マサムネさんからすれば、自分が探求してきた芸術性が、彼女を傷つけたことになります。なので、「正義のしるし踏んづける もういらないや」と、後悔にまみれながら、自分が今まで積み上げてきたものを捨てたのです。
トンビ飛べなかった ペンは捨てなかった
怠惰な命 紙くずの部屋にいた
マサムネさんが積み上げてきた「人間ってこうあるべきでしょ」みたいな正論は投げ捨てましたけれども、「ペンは捨てなかった」と、ペンまでは捨てなかったそうです。創作活動までは、捨てるつもりはないそうです。偉そうに芸術論をひけらかすのはやめたけれど、芸術活動までは辞めることはできない、と。彼女という心の支えを失ってもなお、アーティストとしての夢を諦めることはしなかったのです。それをマサムネさんは自虐的に「怠惰な命」と評しています。
本当なら、彼女に振られてもなお、正義のしるしを抱えたまま突っ走る強さが、アーティストとして必要なのかもしれません。そういう厳格で激烈な命をもってこそ、アーティストとして大成できるのだ、とアーティストを目指す人は考えてしまうでしょう。過去には、自分の生活すべてを投げうって芸術に全てを賭け、成功したアーティストは数多くいます。一方でマサムネさんは、彼女にフラれたぐらいで、簡単に「正義のしるし」を捨ててしまっています。これで成功できず引退してしまっていたら、同業者からは「マサムネくん? ああ、彼は自分の芸術性に忠実ではなかったね。怠惰なんだよ。だから成功しなかったんだ」と言われてしまっていたことでしょう。
でも、正義のしるしを失ったマサムネさんは、それでも曲を作り続けました。ペンをとって、紙に自分の想いを走らせていきます。そうやって書き記した想いが散らかって、紙くずの部屋になったのだと思います。
このように、彼女にフラれて射精ができなくなったことと、アーティストとしての活動は、全部マサムネさんの中では繋がっているのです。これはエロい曲だということもできますし、これは神聖なマサムネさんの芸術を現わした曲なのだ、ということもできるでしょう。
コオロギ鳴いてる 靴の中
宇宙のスイカが割れるまで待ってた
靴の中で、コオロギが鳴いています。たぶん虫が住み着くぐらい、長い間家の外に出なかったのでしょう。マサムネさんは締め切った部屋で、悲しみにくれたり、彼女の裸体を思い浮かべたりしながら、ひたすらペンを走らせていたのです。
「宇宙のスイカ」ですが、これは地球のことだと思います。皮の緑色は緑豊かな地面で、中身の赤い部分はマントルです。そう考えたら、地球っぽいかなと。
この宇宙のスイカが、「割れるまで待ってた」とのことです。つまりマサムネさんはこの時、「地球爆発しろ!!」と思っていたのだと思います。行き詰まりすぎて、頭の中がぐちゃぐちゃになっていたのだと思います。
独りぼっちになった 寂しい夜 大安売り
三塁ベースを踏んで
そこから先は何も思い出せずに
どうぞ僕をのみこんでよ 大きな口で
ここは、「トンビが飛べた」ことを表しているのかもしれないし、やっぱり「トンビ飛べなかった」のかもしれません。ただ、トンビに関することを言っているのだと思います。
何度目かの自慰行為を試みたとき、彼女の痴態を想像して、いいところまでいったんです。野球でいうところの「三塁ベース」をまわったところぐらいまでは、行けたのです。得点まで、もうあとちょっとなのです。でもそこからは、自分でもどうしていたのか、わからなくなりました。
とにかくそのあとは、猛烈な自己嫌悪に襲われています。自分が情けなくて情けなくて、「どうぞ僕をのみこんでよ 大きな口で」と、何者かわからないモノに対して、要望しています。それはマサムネさんが作り出した怪獣なのかもしれないし、この間まで付き合っていた彼女のことかもしれません。ちょっと音楽ができるからといって偉そうにして、自分の感性と合わないことについていちいち突っかかっていたけれど、本当はこんな、フラれたことでウジウジ悩んで、射精も満足にできない、ダメで弱い男なんだ、と。こんな男に生きている価値なんかこれっぽっちもない、消えてなくなってしまったほうがいい。食べたいならどうぞ、と。そういう心持になっている場面なのだと思います。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか。
こういう解釈で見てみると、マサムネさんのナマの感情がむき出しになっているように思えてきます。調理される前の、生の大根のような、素材の味を感じるものになっていると思います。
ただ、これはその後のマサムネさんの詞を読み解いていくうえで、かなり重要な内容が描かれているんじゃないかなと思っています。その後のマサムネさんの詞は、最初のほうで申しましたとおり、いわば調理済みのものです。美味しく、美しく調理されているために、素材の味がわかりにくくなっているのです。根底にある感情がどのようなものであるか、うかがい知ることが難しくなっているのです。それはそれは綺麗な言葉で彩られていて、聴く人を感動に誘ってくれますが、それは凝りに凝ったフランス料理を出されたのと同じで、何を食べされられているのかまでを理解してマサムネさんの曲を味わっている人はかなり少ないと思うのです。
マサムネさんは「性と死」が曲のテーマだと述べていました。それを普通の人が解釈すると、「ふーん、エッチをしている時と、死ぬ時をテーマにしているのね」となりがちです。性と死について、とても狭い範囲でしか捉えることができないのが、普通の人の限界なのです。この認識のズレが、私たち一般人にはスピッツの歌詞をうまく解釈できない、わからない、という誤解に、繋がっているんじゃないかなと思っています。「性と死」の曲として紐解こうと囚われすぎてしまったことが、歌詞解釈を難しくしている原因なんじゃないかなと思っています。
「性と死」が曲のテーマだとだけ申告した当時のマサムネさんは、普通の人の想像力を見誤っていたといえるでしょう。高く見積もりすぎていたのです。
マサムネさんが申告した「性と死」は、もっと広義に、もっと自由に、いろんな場面で存在しているのです。それをマサムネさんは豊かな感性で感受して、発信してくれていたのです。
それをダイレクトに表現してくれているのが、この「トンビ飛べなかった」という詞なのだと思うのです。この、「性」をむき出しにした曲を解像することで、マサムネさんの思い描いた世界が、この後製作された数々の曲を通じて見えてくるんじゃないかなと思っています。
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