こんにちは。八百屋テクテクです。
今回はスピッツの「めぐりめぐって」について解釈していきたいと思います。
この曲のいわんとしていることは、「君にめぐりあえてよかった」ということだと思います。もっといえば、「君」とは、スピッツのファンになってくれた人を指すのかなと。自分たちスピッツが頑張ってきたので、「君」というファンにめぐり逢えた。これはすごい喜びだよ、ということを言いたいのかなと。
ご存じのとおりスピッツは「君」とめぐり逢うために、長い間音楽活動をがんばってきてくれました。私たちファンは、彼らに接するのが長ければ長いほど、彼らの音楽はもちろん、人柄とかも含めて好きになっていることと思います。彼らがひたむきに、真面目に、一貫して、彼らの音楽をやり続けてきてくれたことが、今の彼らと私たちのいい関係に結びついているわけです。
しかしながら。
スピッツは世間的に、どう思われているでしょう?「さわやかで」「好青年で」「真面目で」「清潔で」「安心できて」……かなりクリーンなイメージを持っているのではないのでしょうか。それこそ、政治家にでも立候補すれば、もっともクリーンな政治家として、もてはやされるでしょう。
でも、本人たちからすれば、クリーンさを求めてやってきたわけではないようです。
音楽に限らず、なんでもそうかもしれませんが、クリーンでさえあれば、みんなが支持してくれるわけではありません。クリーンさだけで有名になれるならば、お寺のお坊さんや、カトリックの神父さんが有名になってもおかしくはないでしょう。ニュースのコメンテーターに、高名な僧侶たちばかりをキャスティングすれば、ありがたがって見てくれるひとも増えるかと思いがちですが、そうなっていないですよね。一方で、お笑い芸人が神妙な顔をして、真面目に人間の道を説いたりすると、「よくいった!そのとおり!」だなんて、もてはやされているわけです。人の道を探求している僧侶の言よりも、人の粗を探求しているお笑い芸人の言のほうが、より多くの人に支持されるのです。
迷惑ユーチューバーが最近では話題ですが、彼らを支持してくれる人もまた一定数います。いわく「悪名は無名に勝る」とのことですが、これはひとつの真実でしょう。迷惑ユーチューバーが真面目なことをいうと、とたんに人々は注目し、聞き入るからです。
このように、衆目というのは、クリーンさを求めているのと同時に、クリーンさとは別のものを求めているという、とてもメンドクサイものなのです。
クリーンであり、クリーンでないもの。
禅問答みたいな話ですが、このバランスに優れていることこそが、有名になれる人の条件なのです。
マサムネさんは、この法則を十分理解したうえで、「どうやって、まだ俺たちのことを知らない「君」に、俺たちの歌を届けようか」と作戦を練っていたわけです。
このあたりの事情が、この曲に正直に表れていると、私は思うのです。
違う時に違う町でそれぞれ生まれて
褒められてけなされて笑ったし泣いたし
たまには同じ星見上げたりしたかもね
そして今めぐり逢えた
「褒められてけなされて笑ったし泣いたし」という部分。一般人の私たちならごくごく普通のことですが、あの天才のマサムネさんも、そんなことってあるんでしょうか?
ロビンソンでブレークして以来、ほとんど褒められて笑ったことしかないんじゃないか、なんて、外からみているぶんにはそう考えてしまうぐらい、順風満帆に活動してきました。
でもまあ、やっぱりマサムネさんといえども、スピッツといえども、けなされただろうし、泣いたこともあるのでしょう。
ここが、めっちゃ重要です。
マサムネさんといえども、私たちと同じ人間なのです。私たちと同じ目線で物事を考えているのです。
私たちと同じ目線で笑い、悩んでいる彼が、同じ星を見上げている。
そして今、この両者がめぐり逢えた。っていうことが、とても意味のあることなのだと思います。スピッツはステージ側に立っているけれど、ライブに来てくれた一人ひとりと、ちゃんと向き合ってくれようとしている、ということが、ここでわかると思います。「今、アナタにめぐり逢えた」と目線を合わせて、一人ひとりに対して、言いたいのだと思います。
世界中のみんなをがっかりさせるためにずっと
頑張ってきた こんな夜に抱かれるとは思わず
ひとつでも幸せをバカなりに掴めた
デコポンの甘さみたいじゃん
特別な能力なんてない自分が、有名になるにはどうしたらいいか、売れるにはどうしたらいいか、支持されるにはどうしたらいいかに、苦悩している様子が表れています。それこそ、迷惑ユーチューバーみたいに、迷惑をかけて悪目立ちしたほうがいいんじゃないか、なんて、よくない考えもよぎることだってあるでしょう。「世界中のみんなをがっかりさせるためにずっと頑張ってきた」とは、がっかりさせるようなことをしたほうが目立つと、わかっているからです。
でも、そんなことを考えながらモンモンとしている夜に、「抱かれる」ことになります。アナタがいい、と抱きしめられたわけです。いやこれは、だれか特定の人物に抱かれたのかもしれないんですけれども、スピッツが遠くの誰かに「あっ、このアーティストの曲、いいね」と選ばれたことを指しているのかもしれません。ツイッターかなにかで、「スピッツはじめて聞いたけど、私好きかも~」と、若い人とかが発信しているのを見て、優しく包まれたように感じたのかもしれません。
「デコポンの甘さみたい」とは、どういうことでしょう。これは八百屋さんの出番ですね。デコポンって、凸という形をしていますが、これは柑橘類にとっては本来マイナスなのです。柑橘類は皮が薄いので、とんがっている部分が皮に刺さることで、傷んでしまうのです。なのでミカンなどでもデコポンと同じく先が尖ることがあるのですが、収穫の際には不適合果としてはじかれてしまい、日の目をみることがないのです。袋詰めされて私たちの食卓に届くのは、ツルツルしたミカンばかりになります。でもデコポンは、凸という形状を逆に利用した果実です。普段は煙たがれ、選ばれなかった性質だったけれど、それこそが君のいいところだ、と認めてくれたわけです。
デコポンは、とても甘い柑橘なんですけれども、ただ甘いだけでなく、裏側にもしっかりしたストーリーがあるんですね。このストーリーを、まるで自分たちのことのように汲んでくれたスピッツ。私たち普通のひとと同じく、泥臭くいきてきた人の感性だと思います。俺たちは決して、誰からも選ばれる優良なミカンではないから、せめてデコポンみたいな存在でありたい。そう言っているように思えます。
君のために歌うことで 憧れに手が届くような
戯言かな 運命を蹴散らしてく
これも、いちファンである「君」との関係を、対等に思っている証拠です。
有名アーティストぐらいになると、よく「ファンの皆様へ」みたいな言い方になります。何かを発言する際には、対象が「大勢の人たち」になります。いや何も、アーティストに限った話ではありません。私のような八百屋さんでさえ、「多くのお客様」という、顔が見えないものを相手にしがちです。多くの人に売れるにはどうしたらいいか、数字を上げるにはどうしたらいいか、という考え方になります。営利企業なのでしょうがない部分もあるんですけど、本来は、いつも来てくれる山田さんとか、リンゴが好きな鈴木さんとか、腰が悪くて荷物を運んであげなくちゃいけない佐藤さんとか、ひとりひとりに対して向かい合って、丁寧にお付き合いをしていく。山田さん、鈴木さん、佐藤さんのために、自分ができることをする。そのたくさんの積み重ねが、本当の意味での商売なのです。
マサムネさんもまた、一人ひとりに向かいあおうとしています。スピッツをほとんど知らない「君」のために歌い、「君」に認められることで、やっと憧れた存在に近づける。ひとり、ひとりとファンを獲得していくことで、「スピッツって古いよね。まだ活動していたんだ」という「運命」を蹴散らすことができるのです。スピッツと同世代に流行ったアーティストたちで、今も活動できている方は少ないでしょう。自分たちのことを、なんの能力もないと思っているスピッツは、「俺たちも消える運命だ……」と思ったに違いありません。だからこそ目立つために「がっかり」させようと無理したり、憧れになることを「戯言」だと思ったりもしていましたが、そうやって一人ひとりと向かい合い、あがくことで、消える運命を蹴散らし、今もこうしてステージに立つことができているというわけです。
秘密のスタジオでじっくり作ったお楽しみ
予想通りにいかないけど それでもっとワクワク
守ってきた捻くれもちらりのぞかせて
フリーハンドでめぐり逢えた
これは、スピッツが曲を作っている場面ですね。「守ってきた捻くれ」も、「ちらり」と使っているのが、スピッツを昔から知っている人なら、ムフフと思っちゃいますね。スピッツはロックなので、捻くれているのが普通なんですけど、それをぱっと見わからないようにしています。よーく見れば、あっ、捻くれているな、とわかるので、それもまたスピッツの楽しみになっているのです。昨今では、ますます曲に技巧を凝らしてきていて、私のような解釈しているファンとしては、解釈のしがいがアリアリで嬉しい限りなのですが、マサムネさん本人の口から「捻くれをちょっと入れてます」と言ってくれているあたり、昔と変わらないものも感じられて、これもまた素敵ですね。
まあちょっと、個人的な話が過ぎましたが、ようは、じっくり曲を作っていますよ、ということを言いたいのだと思います。
君のために歌うことで 未知の喜びに触れるような
大げさかな 概念を塗り替えてく
細い糸をたぐって 何度もめぐりめぐって
雨はあがり 光の中
「未知の喜びに触れる」とか「概念を塗り替えてく」は、かなり前向きな発言です。さっきの「憧れに手が届く」とか「運命を蹴散らしてく」の部分は、前後のニュアンス的には後向きとなります。「このままだと奈落の底に真っ逆さまに落ちちゃうけれど、ギリギリのところで崖の上に手が届くかもしれない」的な。ところが後者の部分は、未知の部分に突っ込んでいったり、概念を塗り替えたりと、かなり攻めている姿勢です。先頭ランナーに必死でついていくのと、自らが先頭ランナーになって突っ走るぐらいの違いがあります。一見すると矛盾しているようですが、でも音楽アーティストとしては、この後ろ向きな気持ちと、前向きな気持ちが、矛盾なく同居するのだと思います。「君」に応援されると、どうしても進む気持ちになるみたいです。
最後に「何度もめぐりめぐって」の部分。このタイトルにもなっている、一番言いたい部分です。この曲のタイトルが、アルバムのタイトルにもなっている「秘密スタジオ」ではなく、「めぐりめぐって」なのは、やはりマサムネさんの、ファンになってくれる一人ひとりに対する気持ちの表れなのだと思います。
ずっとスピッツファンでいてくれる人、途切れ途切れになりながらもライブにまた来てくれた人、新しくファンになって初めてライブに来てくれた人、いろんな事情の人がライブ会場に来てくれて、自分たちの演奏する姿を見てくれているのです。自分たちスピッツがやってきたこと、そしてスピッツがやってきたことを受け止めてくれて、好きになってくれた「君」、それが細い糸のような確率でめぐりめぐって、今こうして向かい合っている。
これがマサムネさん的には不思議に思うし、同時にとても嬉しいのです。この嬉しさが「めぐりめぐって」というタイトルに表れていると思うのです。
最後に、この内容を踏まえて、ブログのタイトルにもあります「有名になるとはどういうことか」を、少し考察してみたいなと。
マサムネさんの「世界中のみんなをがっかりさせるためにずっと頑張ってきた」の部分。これに違和感を覚えた人が多いと思います。でも詞とか、スピッツのスタンスとかを追っていくと、やがては理解できちゃう部分なのではないのでしょうか。ありていにいえば、自信がないのです。大きく振りかぶって、バーンと派手なことをして、それで「わ~スピッツってすごーい!」って全員から褒められる、なんて王道が自分たちにできるとは、思っていないのです。むしろ、バーンと派手なことをしようとして、若手のお笑い芸人みたいにドン滑りして、しらーっと微妙な空気になることを恐れています。というより、絶対そうなると思い込んでいます。
でも、私たちファンは、スピッツのやることなすことを、安心してみていられます。スピッツのやることなすことに、安心しきっています。そういう安心感が、スピッツにはあるのです。
これは、スピッツが、長い時間をかけて頭を悩ませ、試行錯誤してきた結果であるといえるでしょう。「有名になりたいから、派手なこと、変わったことをしないと…」「でも、ドン滑りしたらどうしよう…」「批判されたらどうしよう…」「人気がなくなったらどうしよう…」これらの葛藤にずーっと悩まされつづけながらも、それでも「君」という、ファンに喜んでもらおうとするために、ギリギリの部分を調整しながら、頑張ってきたのだと思います。その絶妙な調整と、たゆまぬ努力が、今のスピッツの人気の秘密なのだと思います。
焦って迷惑ユーチューバーの真似事にも走らず、かといって大物アーティストのように守りにも入らず、絶えずギリギリを考えて進んできたからこそ、私たちファンは、今の素敵なスピッツを眺めることができているのだと思います。彼らは天才ではなく、努力家なのです。
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