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スピッツ「まがった僕のしっぽ」は、「漕げよマイケル」説~スピッツ歌詞解釈~



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「まがった僕のしっぽ」について解釈していこうと思います。

詞を眺めた感じでは、ブログタイトルにあるように「これは、『漕げよマイケル』について歌っている曲なんじゃないかなぁ…」なんて思ったんです。

みなさん、「漕げよマイケル」って知ってますか? 「マイケル漕げ岸へ~ハレルヤ!」ってやつです。小中学校の音楽の授業で習った方もいるのではないのでしょうか?

あの曲の主人公マイケルは、アメリカの黒人奴隷です。彼は自由を求めて、アメリカの東海岸から、生まれ故郷であるアフリカ海岸を目指して、船を漕いでいくというのが、この歌の内容となっています。

「漕げよマイケル」の詞の中では、マイケルは、イスラエルとパレスチナを流れる聖なる川、ヨルダン川を渡っています。この川を越えれば、約束の地カナンにたどり着くとされています。なので、「漕げよマイケル」は、バビロン捕囚により各地に散ったユダヤ人たちの歌という説もあります。

でも、この詞が作られた目的は、アメリカ南北戦争における奴隷解放です。この曲は明らかに、アメリカにいる黒人奴隷を奮起させるために作られた曲なのです。つまり、詞の中に出てくるヨルダン川は、アメリカとアフリカの間にある大西洋を指しているのだと思います。

そんな「漕げよマイケル」と、「まがった僕のしっぽ」が同じである説。この考察は、合ってるかもしれませんし、違うかもしれません。

が、ここは、合っているという前提で、「まがった僕のしっぽ」を解釈してみたいなと。




大陸のすみっこにある街は 全て初めてなのに

子供の頃に嗅いだ 甘い匂いがくすぐる

まず最初に、「大陸のすみっこにある街」とは、いったいどこかという話ですが、「漕げよマイケル」時代の話だと仮定すると、アメリカ南北戦争の激戦地となった、ジョージア州のアトランタではないかなと。アトランタは、アメリカ大陸のすみっこに位置しています。また、「風とともに去りぬ」の舞台にもなっています。

アトランタには黒人奴隷が多く使役されていたプランテーションがあります。プランテーションでは、主に綿花を育てていましたが、このコットンフラワーの甘い匂いのことなんじゃないかなと。綿花は、栽培している場所でしか、ほとんどお目にかかれないものですから。

子供の頃にアフリカで嗅いでいたコットンフラワーの甘い匂い。奴隷としてアメリカに連れてこられて、アトランタにて再び、コットンフラワーに出会った。



巣穴失った僕は 風の歌聴きながら

星空に抱かれ寝るのも 慣れちまったが

少し苦いブドウ酒と 久々白いベッドが

君の夢見せてくれたよ

アメリカ南北戦争時における、ジョージア州など南部の黒人奴隷の扱いですが、刑務所の囚人のような強制労働をさせられていた奴隷もいれば、使用人として白人宅に自由に出入りし、その子供たちを躾けるなど、現代に生きる私たち労働者と変わりのない生活を送っていた奴隷もいました。「風とともに去りぬ」にて、アトランタが灰燼と化して、奴隷解放宣言がなされた後も、主人公スカーレットを案じ、義理人情でオハラ家に残留した黒人奴隷たちの姿が描かれています。

「まがった僕のしっぽ」の彼も、奴隷ではありましたが、この頃になるとブドウ酒とベッドで、それなりの歓待を受けています。

でもこの歓待は、奴隷としてつれて来られる前の、アフリカでの生活を思い出させました。アフリカにいたころに、一緒だった「君」の夢を見たのです。



しかめっ面の男が ここに留まれと諭す

だけどまがった僕の しっぽが本音語るんだ

旅することでやっとこさ 自分になれる

うち捨てられた船に つぎはぎした帆を立てて

今岸を離れていくよ

「しかめっ面の男」は、アトランタの白人貴族たちです。「奴隷身分といっても、お前は生活に不自由してないじゃないか。なんで危険を冒してまで、アフリカに戻ろうとするんだ。考え直せ、お前のためを思って言ってるんだ」と諭してきます。

普通の黒人奴隷なら、それに従ったでしょう。いまさらアフリカに帰るなど、死ににいくようなものです。現実的ではありません。

でも、僕の心は曲がっています。「しっぽ」と表現していますが、曲がっているのは、心のほうです。その当時の黒人奴隷としては、曲がっていた、というわけです。

でも、ひねくれている、というわけではありません。曲がっているのは、世の中のほうがおかしいからです。嫌な匂いがすれば、私たちの鼻は曲がりますよね。嫌な匂いがしても鼻が曲がらないひとは、嫌な匂いに慣れてしまっている人です。僕のしっぽが曲がるのは、間違っているものは間違っている、と正しい感性を持っているからなのです。

旅することで、つまり、「漕げよマイケル」することで、やっと自分を取り戻せる、というわけです。

つぎはぎした帆を立てて、今アメリカ東海岸から、アフリカ大陸へと渡る航海の旅へと旅立っていきます。



波は荒くても この先を知りたいのさ

たわけもんと呼ばれた 魂で漕いでいくのさ

例えどんな形でも 想像しなかった色でも

この胸で受け止めたいし 歓喜で咆えてみたい

誤解で飛びかう石に 砕かれるかもしんないけど

夜明けに撫でられる時の ぬくもりに浸りたい

ここから曲の雰囲気が一変します。航海の大変さを物語っているようです。

荒波にもまれて、いきなりピンチを迎えています。でも同時に、喜んでいるようにも思えます。「漕げよマイケル」は、船を漕いでいく喜びを歌っている曲ですが、「まがった僕のしっぽ」もまた、そうかもしれません。

「誤解で飛びかう石」とは、ちょっとキリスト教を彷彿とさせます。キリストがいた時代では、罪を犯した人間は、石を投げつけられる刑に処されていました。そして南北戦争時代までは、白人に購買された黒人奴隷が逃げ出すことは、犯罪でした。キリストは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がこの女に、まず石を投げなさい」といって、罪を犯した女をかばっていますが、キリストは白人の宗教なので、自分たちを守ってくれるかどうかはわかりません。投げつけられた石に当たって、頭を砕かれるかもしれないのです。



勝ちあがるためだけに マシュマロ我慢するような

せまい籠の中から お花畑嗤うような

そんなヤツにはなりたくない 優秀で清潔な地図に

禁じ手の絵を描ききって 楽しげに果てたい

「マシュマロ」とは、奴隷に支払われていた低賃金を指しているのではないかなと。つまり、「勝ちあがるためだけにマシュマロ我慢」をしているのは、アメリカ南北戦争における、北軍にあたります。奴隷解放軍のほうです。「低賃金でこき使いやがって。もうそんな低賃金で言うことを聞くとおもったら大間違いだぜ。俺たちは自由になるんだ」という奴隷です。

対して、「せまい籠の中からお花畑嗤う」のは、奴隷維持の方針の南軍です。「お前ら奴隷が解放されるとかお花畑みたいなこと言ってるけど、そのあとどこに就職するんだ。白人に逆らった奴隷を、白人が雇ってくれると思ってんのか? 食っていけんのかよ」と嗤っています。「嗤う」とは、馬鹿にするという意味です。確かに、奴隷維持のほうが、いろいろ考えているふうにも思えます。現代の日本において、ストライキなど労働紛争が起きないのは、低賃金でこき使われているほうがマシだという、頭のいい人が多いからでしょう。ストライキを主導して会社から冷遇される人間を、低賃金の人間は、それ見たことかと嗤うでしょう。

でも、「僕」は、どちらにもなりたくない、と言っています。北軍にしろ南軍にしろ、現代の視点で俯瞰すれば、黒人奴隷の立場を真摯に考えたものではないからです。ただ戦争のスローガンに利用されただけで、どちらに乗っかるのも嫌だなぁ、と思っています。

最後の、「優秀で清潔な地図に、禁じ手の絵を描く」とは、何を示しているのでしょう?

アメリカ南北戦争は別名、奴隷解放戦争ともいわれています。アメリカ大統領のエイブラハム・リンカーンが、黒人奴隷の開放を宣言したからです。これにより黒人奴隷が解放され、自由の国アメリカになった、というわけです。時代は下りますが、アメリカは民主主義の象徴として称えられたり、世界の警察として機能したりといった、現代でも「優秀で清潔な国」となっています。

……というのはもちろん皮肉です。アメリカにつれて来られた黒人奴隷の立場としては、自分の人生をむちゃくちゃにしたくせに、奴隷解放宣言など胡散臭いことをいう国を信じられなくなっています。

先ほどキリスト教に関する話を少しだけしましたが、この禁じ手の絵というのは、キリスト教に関係するものではないのかなと思います。

当時のアメリカ南北戦争までのキリスト教は、「奴隷制度は合法である。主もそうおっしゃっている」という見解を示していました。なので白人たちは安心して、黒人奴隷を使役できていたわけです。このことから、キリストに反逆する絵だったのではないかなと、想像することができますね。



「漕げよマイケル」も宗教の曲になりますが、「まがった僕のしっぽ」もまた、宗教の色が見え隠れしていると思うのです。

そして、どちらも同じく、「岸を離れていくよ」で、曲が終わります。どちらも希望を抱いて、岸を離れていくのです。




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