
こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「いろは」について解釈してみたいと思います。
この曲のタイトルは「いろは」となっております。「いろはにほへと」のことですね。いろは歌ともいいますが、これはすべて、仮名文字で表された歌となっています。かな文字すべてを一文字ずつ使って、意味のある歌に仕上げているという、大変テクニカルな歌です。
一方で、日本語は漢字と仮名文字で成り立っています。漢字は、文字通り、漢人つまり古代中国文字です。古代日本人は当初、主に漢字を使用していましたが、文字の普及を促進させるため、読み書きが難しい漢字をサポートするための独自の文字を編み出しました。それが仮名文字です。仮の名を当てると書いて、仮名文字なのです。この仮名文字を普及させ、ひいては日本語を普及させる役割を果たしたのが、紫式部の源氏物語であり、清少納言の枕草子というわけです。平安時代のこの2大文学作品は、のちの私たち日本人に、多大な影響を与えたと言ってもいいでしょう。
スピッツ「いろは」は、つまり、この日本独自の文字である、日本語のことについて語った曲なんじゃないかなと思いました。
どういうことなのか。詞を眺めていきましょう。
波打ち際に 書いた言葉は
永遠に輝く まがい物
この詞は日本語のことだと仮定すると、「永遠に輝く まがい物」は、まさに日本語のことだと解釈できます。私たちが普段使っている日本語は、上記で述べたとおり、中国からの借り物なのです。さらにいえば、ルーツを中国に持ちながらも、今の日本語では、中国人とコミュニケーションを図ることができません。まさに、「まがい物」なわけです。とはいえ、その日本語は源氏物語や枕草子をはじめとして、歴史に残る多くの文学作品を作り出してきました。このように、日本語は「永遠に輝く まがい物」であることは、世界中の誰もが認める事実だと思います。
なお、マサムネさんが歌詞において「書く」とはあまり表現しないんです。だいたい「描く」のほうをチョイスしています。「君だけを描いてる」とか「描いてたパラレルの国へ」「描いたいくつもの小さな花」みたいな。何かを表現する時、意味を表すだけの文字ではなく、絵そのものを描いて表現するのが、マサムネさんの好みなのです。もし波打ち際に何か残したい気持ちがあったのだとしたら、普通だったら、絵になるのです。でも、ここは「書いた言葉」でなければいけなかった。なぜなら、「書いた言葉」つまり、日本語で書いた文字そのものについての話をしようとしているからです。この部分については、そう解釈しました。
俺の秘密を知ったからには
ただじゃ済まさぬ メロメロに
ここは、日本語のフトコロの広さを表しているような気がします。「俺の秘密」とは、日本語の秘密のことだと思います。上記で述べた通り、中国語を吸収、分解して、独自のものとしましたが、現代においてもなお、同じようなことをし続けています。それが、外来語です。
ドイツ語から「アルバイト」「エネルギー」「ベクトル」「コラーゲン」、イタリア語からは「ピアノ」「ソプラノ」「トロンボーン」、フランス語からは「メートル」「リットル」「アバンチュール」「コロッケ」など、ありとあらゆるモノやコトが、日本語として取り入れられてきました。私たちが生活するうえで、これらはもはやなくてはならない言葉たちです。「ただじゃ済まさぬ メロメロに」とは、メロウメロウ(溶かして)にして、日本語として吸収しちゃうぞ、ということなのかなと。もちろん、日本語としての良さを広めて、日本語の虜にしちゃうぞ、という意味での「メロメロ」もまた、含まれていると思います。
まだ 愛はありそうか?
今日が最初のいろは
「まだ 愛はありそうか?」とは、私たち日本人に、マサムネさんが問いかけている言葉なんじゃないかなと。「日本語、愛着をもって、ちゃんと正しく使っていますか?」と。
若者を中心に、日本語の乱れを心配する大人というのは、いつの時代にもおりましたが、たいていは口うるさい大人というイメージがあると思います。古臭いマナーを、これ見よがしに細かく指摘してくる小姑的な存在は、現代を生きる若者にとってはつねに迷惑で邪魔な存在ですよね。
でも、マサムネさんは、「正しく使え」と押しつけがましいことを言いたいわけではないと思います。ただ、日本語の綺麗さを知る人として、昨今の言葉の乱れを憂いているのかなと。マサムネさんほどの綺麗な詞を手掛ける人なら、同時に、言葉の乱れもまた、人一倍感じているんじゃないのかなと思います。なので「まだ 愛はありそうか?」と、問いかけているのです。
「今日が最初のいろは」は、「今日の最初の、美しい日本語を言いまーす」と宣言している部分なのかなと。たぶん朝起きて、最初に発する言葉といえば「おはよう」です。「御早う御座います」という、相手をねぎらう言葉が語源です。こういう美しい言葉の積み重ねにより、日本語は形成されているのです。
ポルトガルから 地の果てに着いた
暗い谷間へ逆さまに
「ポルトガルから 地の果てに着いた」は、西洋から見ると地の果て、つまり日本に伝来しました、ということを表しているのかなと。
ポルトガルから来た外来語は、数多く存在します。特にポルトガルは、他の西洋諸国よりずいぶん前に日本に伝来したということもあり、「天ぷら」「金平糖」「カステラ」「マント」など、日本語になじみきったものも数多くあります。これが「暗い谷間に逆さまに」落ちて、日本語として転生したということなのかなと。
ハッと目が覚めて フォーカス合う前に
壁に残った 奴の顔
新しい外国の言葉が、カタカナ文字に変換されて日本語になる際に、「暗い谷間に逆さまに」落ちるという、なんか不思議な工程があるようです。
あまりいい例えではないかもしれませんが、リストラの語源となったre-structuringは、再構築再編成つまり、より業績を伸ばしていくための施策として、組織を再編成するという意味になりますが、日本ではリストラは解雇という意味で使われています。首切りのことです。このように、日本語に変換された時、日本側に都合のいいような意味づけをされてしまうことがあるのです。re-structuringの本当の意味が「フォーカス」される前に、リストラの意味が浸透してしまう。これが外来語の威力であり、日本語の柔軟すぎるところです。この仕組みのせいで、バレンタインデーは由来もろくに知られないままチョコの日として浸透しちゃうし、クリスマスはケンタッキーとイチゴショートケーキを食べる日になってしまうのです。バレンタインデーの由来になったバレンタインさんが、ただのチョコの日になってしまったことを苦々しく思っているであろう一方で、仮名文字を広めた張本人である紫式部は、ゲラゲラ笑っているかもしれません。
マサムネさんが、この詞「いろは」の製作に取りかかかっているうえで、日本語の不思議さについて考えている最中、ㇵッと目が覚めて「なんじゃこりゃー」とチョコまみれになっているバレンタインと、その横でゲラゲラ笑っている紫式部の顔が、壁に浮かんでいるような錯覚を覚えたのかもしれません。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
個人的な解釈ですけれども、この時期のマサムネさんは、恋愛うんぬんよりも、日本語の美しさとか、社会についてとか、そういうことに関心が向いているような曲が多いように思います。スピッツの詞のテーマは「性愛と死」だというふうに本人は語っておりましたけれども、たぶんそれは「性愛と死の内容しか描きません」という意味ではなく、「性愛と死は、いろんな分野のことを考えるうえで基本になっています。性愛と死を深堀りしたことが、他の物事を考えるうえで、めっちゃ役に立つのです」ということを言いたかったんじゃないかなと。
この詞は、私の解釈においては、日本語を賞賛する内容とはなっておりますが、そのずっと深いところには、やはりマサムネさんの性愛観であったり、死生観であったりが、息づいているのだと思うのです。性愛観があるからこそ、日本もまたを美しいと感じるし、死生観があるからこそ、日本語もまた儚いと感じるのです。
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