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奥田民生「さすらい」をスピッツがカバーする意味について。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、奥田民生「さすらい」を、スピッツがカバーした件について、独断と偏見で語っていきたいと思います。

といっても、このブログを書いているのは2024年。奥田民生が「さすらい」をリリースしたのは1998年、スピッツがカバーしたのが2007年のことですから、めちゃくちゃ前になります。まるで歴史の教科書の出来事を話しているような、そんな気分になります。

また、スピッツの「さすらい」は、テレビ番組「出川哲朗の充電させてもらえませんか」で起用されています。けっこう人気な番組なので、ひとによっては、こっちのほうがよく耳にする、なんて人もいるんじゃないでしょうか。

一方で、「もともとこの曲は、奥田民生のものなので、原曲を使えばいいのに。なんでスピッツなんだ。テレビスタッフの、スピッツ贔屓か?」だなんて思う方もいるかもしれません。

でも、番組のコンセプトと、「さすらい」の意味を重ね合わせると、スピッツ版「さすらい」をこの番組に起用したことの意味が見えてくるような気がしたのです。



まず、この番組は、豪華絢爛な建物や、その土地の豪華な食事、レジャー施設などを巡る「観光」ではなく、民家の少ない山道や田園などを散策して、そこで出会った人々との交流をする「」を主軸にしています。

「観光」は、あくまでも自分が主体です。自分が楽しむためのものです。自分の舌なり気分なりを満足させることが目的になります。逆に言えば、旅館側の不手際とか、メシがまずいとか、酔っ払いに絡まれるといった事件が起こったら、失敗になります。せっかく高いお金を出したのに、いやな思い出になりました、というもので終わります。

出川さんの「旅」は、これとは性質が違います。主人公はあくまでも「その土地に住んでいる人々」です。その土地に住んでいる人に対して、出川さんが面白おかしくアプローチをすることが、見どころになっています。例えば、この先美味しいお店がある、と聞いて、バイクの充電を減らしつつワクワクしながら店を目指したけれど、たまたまお店が休みだった、なんて場面がまあまああります。が、そこに居合わせた近隣の方に話を聞いたりしながら、「いや~でもここにきてよかったですよ~」みたいな、愉快な感じにしてくれます。自分も楽しいし、周りも愉快な気持ちなって、応援してくれる。この応酬により、旅がもっともっと楽しいものになります。これが「旅」の本質だと思うのです。



奥田民生さんの人生観もまた「旅」に通じるものを感じます。彼は交友関係が非常に広く、いろんな活動をしています。交友関係といえば、特にトータス松本さんとのエピソードが思い出されます。トータス松本さんが音楽を辞めようかを悩んでいると相談したところ、普段は寡黙な奥田さんがヒートアップして、罵詈雑言を浴びせて引き留めたという話です。その場に居合わせた井上陽水さんがビックリして、奥田さんに謝るよう促したそうです。このエピソードにでてくる登場人物だけでも、相当なものです。

このように、奥田民生さんの本気の体当たりで、他人と交流しようとする姿勢は、胸を打ちます。結果、多くの才能あるアーティストとの交流もあり、また彼が手掛ける楽曲は、ナマの奥田民生さんの人柄とか、生き様そのものだと、私たちに思わせます。そういう力が備わっています。



このエピソードを踏まえて、奥田民生さんの曲をスピッツがカバーする、という出来事を見てみますと、ただ他人の曲をカバーしてみました、という以上に、なにか特別な意味を感じさせます。

奥田民生さんは、交流を広げること自体を目的としているような生き方をしています。そこでいろんな価値観に触れて、いろんな経験をして、楽しくやる。まさに「旅」をしているのです。

そんな「旅」の途中で才能ある人と出会い、嬉しくなって自分の曲を披露してプレゼントした。この構図が、先ほどの出川さんの番組のコンセプトと、合致しているような気がするのです。

奥田民生さん自身ではなく、あえて奥田民生さんの曲を受け取ったスピッツが演奏することで、この意味が大きくなる、ような気がするのです。



もうひとつ、触れておきたいことがあります。

スピッツの草野マサムネさんが手掛ける曲は、どれも繊細な世界観を持っています。特に歌詞はガラス細工のように繊細で、単語ひとつ、助詞ひとつ違えば、バランスが崩壊してバラバラになってしまうような、そんな詞を作っています。曲一つ一つに、めちゃくちゃ細かい設定をしているのです。

そんな詞の危ういバランスもあってか、曲を歌い上げる時も慎重そのものです。ライブでも、まるでCD音源かのように、きっちり正確に歌い上げます。

こんなスピッツの、ガチガチに決まっている曲を歌い上げているマサムネさんが、奥田民生「さすらい」を歌ったら、どうなるのでしょう?

奥田民生さんは、「詞の中にあまり意味を放り込まないようにしています」と言っている通り、「ここがこうなってるから、ここの意味はこうで…」みたいなまどろっこしいことはないと思います。とはいえ、「これは旅の曲なのです。旅とは、こういうものです」とわかるぐらいには、はっきり主張があります。こういうストレートで明朗なメッセージ性のある曲を作れるのは天才だと思います。

この曲をマサムネさんに歌わせることで、マサムネさんが自分でかけた呪いである「緻密な曲を作って、正確に歌い上げることが、スピッツの特色だ」という概念を打ち壊していくことができます。これは、とても大きな意味があると、私は思うのです。

なお、打ち壊すといっても、側の部分だけです。ちゃんと自分のものにした歌い方をしているので、知らない人がきけば「ふーん、これもスピッツの曲なのね」と思ってしまうことでしょう。「さすらい」は、マサムネさんを呪縛から解き放ち、またマサムネさんも自分のモノにした「さすらい」で、多くの人を感動させているのです。

この部分にも、なにか奥田民生さんなりの「旅」に関する影響が出ているような気がするのです。



最後に、ちょっと「さすらい」の歌詞を分析してみましょう。



さすらおう この世界中を ころがり続けてうたうよ 旅路の歌を

さすらい、とは、あてもなく歩くことです。「観光」には目的地がありますが、「さすらい」には目的地がありません。

でも、ちゃんと目的はあります。それは「旅路の歌を」「ころがり続けてうたう」ことです。世界中に、歌を届けることです。これは壮大な歌ですね。



まわりはさすらわぬ人ばっか 少し気になった

風の先の終わりを見ていたらこうなった

雲の形を まにうけてしまった

そもそも「歌」を歌うことの目的って、なんでしょう? CDを売ってお金を儲けることでしょうか? SNSでいいね!を稼ぐためでしょうか? スポンサーやプロデューサーのご要望どおりの曲を作って、彼らの期待に応えるためでしょうか? 確かにそういう面もあるでしょう。なので、歌が得意な人ほど、歌を歌う場面が非常に限定されてきます。ライブのステージの上か、スタジオの録音室か、カメラの前ぐらいになります。そこでしか、自分の歌が歌えないのです。これって、めっちゃ窮屈ではありませんか?

せっかくの歌が、お金とか、いいね! とかに囚われすぎて、不自由なものになってしまっているのです。これを嫌って、「さすらおう」としているのではないのでしょうか。「さすらい」の目的は、まず不自由な環境を抜け出して、自由になることです。

「風」は、目に見えません。ので、「風の先の終わり」もまた、見えるものではありません。たぶんこれは、想像しているのです。「風の先の終わりは、どうなっているんだろう?」と。お金の儲け方とか、いいね! を稼ぐ方法ではなく、別のことを考えるのに夢中になっていることを示しているのではないかなと。「雲の形を真に受ける」のもそうです。

こういう、アーティストとして考えなければならないことは考えずに、あくまでも自分が考えたいことだけを考えていたい、という姿勢が「さすらう人」になるのです。

不自由を嫌って、自由になりたい、という気持ちが強くて、「こうなった」といっています。



さすらいの 道の途中で 会いたくなったらうたうよ 昔の歌を

どんなに遠くで旅をしていても大丈夫です。日本を離れたところにいても、日本の歌を歌えば、日本を感じることができます。誰かの曲を歌えば、その誰かの呼吸を感じることができます。そういう意味では、アーティストはさすらうことに向いている職業だと言えるでしょう。



人影見当たらぬ 終列車 一人飛び乗った

海の波の続きを見ていたらこうなった

胸のすきまに 入り込まれてしまった

誰のための 道しるべなんだった

それを もしも 無視したらどうなった

ここは、「さすらい」の旅に出たいけれど出ることができないでいる、悶々とした気持ちを表しているのではないかなと。

「人影見当たらぬ 終列車」に飛び乗るのは、仕事が忙しくて残業している会社員を想像します。敷かれたレールに沿って、いい学校にはいり、いい大学に入り、いい会社に就職した。自分のやりたいこともできずに、やりたくもない仕事を一生懸命こなす毎日。

そんな彼が、ある日ふと海の波の続きを見ていたら「自由になりたい」という思いに駆られてしまいます。目の前の仕事に関係のないことを眺めたせいで、余計な思考がもたげてきたわけですね。「胸のすきまに 入り込まれてしまった」わけです。

「誰のための 道しるべなんだ」という思いもあります。サラリーマンなら、年収のいい会社に入って、出世して、誰にも誇れる、羨ましがられる生活を手に入れることが、人生の幸せでしょう。彼は、「こっちにいくと幸せになれます」という道しるべに従って、これまで生きてきたのです。一生懸命働いて貯めたお金で、高級車を買ったり、高い腕時計を買ったり、高い結婚指輪を買ったりすることが、幸せだと教えられて。

ここは、アーティスト目線でも当てはまると思います。道しるべになっているのは、やはりオリコンのランキングとか、スポンサー契約とか、CM出演とかでしょう。そこにたどり着くために、みんな四苦八苦しており、またそこにたどり着いてお金を稼いだら、やはり高級車や腕時計、指輪につぎ込むのです。これが幸せの「道しるべ」です。

「これを 無視したらどうなった」だろう? と自問自答しています。幸福への道しるべが示す道とは、あえて別の道を進んだ時、そこに待っているのは、いったい何なのでしょう?



さすらいもしないで このまま死なねえぞ

「幸福への道」を大勢のひとが歩いている中、ひとり、別の道をいき、さすらう。これは、とても難しい判断です。

でも、「さすらいもしないで このまま死なねえぞ」と宣言しています。世界中の人に自分の曲を届けるために、いつか、さすらうつもりでいます。「旅してるね」と言われるような生き方がしたいと願っています。



という感じで解釈してみました。

これはロックですね。「旅」への憧れの曲でもあり、同時に、世間が考える幸せに対する疑問も投げかけられています。

ロックだと感じるのは、私がスピッツのファンだからなのかもしれませんが。まあ、スピッツのいちファンから眺めた「さすらい」は、このように映っている、ということです。

なにかの参考になれば幸いです。




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