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スピッツ「田舎の生活」の歌詞の美しさについて。~スピッツ歌詞解釈~

  • 2022年8月3日
  • 読了時間: 7分

更新日:3月1日



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「田舎の生活」について、解釈していこうと思います。

といっても、解釈自体は、そんなに難しいものではないと思います。「君」との生活を夢見ていた「僕」だったけど、それが叶わず、都会へと帰っていく、という話です。

憧れだからこそかもしれませんが、田舎の描写がとにかく美しいんですよね。私自身、福井という半端な田舎に長年住んでいるのでわかるのですが、田舎って、とにかく住みにくいの一言です。電車やバスの頻度は少ないし、買い物できる場所はコンビニかスーパーしかなく、選択の余地がない。職がない。店をやろうにも人が来ない。虫や蚊など害虫が多い。根も葉もない噂をリアルでばらまき村八分を作ろうとする、害虫みたいなオジサン、オバサンも多い。水道やガスなど未整備なところがある。学校や病院が遠い。なにより、その不便さを嫌っている人が大多数であり、不満を漏らし合うことで共通認識であることを確認しあっている、ということです。つまり、「いやぁでも、田舎いいじゃん。自然豊かだし」とでも言おうものなら「何いってるの! こんな不便な場所がいいだなんて、頭おかしいんじゃないの?」と、やいのやいの言われちゃいます。


そんな、田舎者の気質を知っている私から見ると、この「田舎の生活」の歌詞は「……この詞は、現実離れしている。田舎の人には受け入れられないだろうな……」と、この曲を知ったばかりの中学、高校時代は思っていました。


でも、なんの因果か、野菜を扱う職に就いて、自然と田舎の美しさに触れていくうちに、「この詞の美しさが本物かもしれない。本物として、受け入れたい」と思うようになりました。

もっとも、「田舎の生活はいいよね」と田舎の人に言うと、「そんなわけねーだろ」と反発が来ることがいまだに多いので、大っぴらに言うことができませんが、自分の心の中に映る田舎の景色を、美しいものにすることが、できるようになったと思っています。


長々と自分語りをしてしまいましたが、「田舎の生活」の詞においては、単なる田舎に対する美しさだけではなく、田舎に対するネガティブさが一切でてこない点にも、注目してもらいたいと思いまして、あえて愚痴っぽく言っちゃいました。

ネガティブさが一切出てこないとは、どういうことか。それは、現実世界の話ではないということです。綺麗な思い出の中か、もしくは想像の中の風景であるということです。



なめらかに澄んだ沢の水を ためらうこともなく流し込み

懐かしく香る午後の風を ぬれた首すじに受けて笑う

野うさぎの走り抜ける様も 笹百合光る花の姿も

夜空にまたたく星の群れも あたり前に僕の目の中に

美しい自然の風景ですね。「澄んだ沢の水」は、どこに流し込んでいるのでしょう。たぶん喉の奥です。つまり、ごくごく飲んでいるというわけです。えっ、生水飲んじゃダメでしょ、と思いますよね。山奥の水でも、雑菌に汚染されている場合があるので、いくら清流でも飲めません。でも、普通ならためらう飲水でも、この沢の水なら飲める、と彼女に教えられたのでしょう。ためらうことなく、喉に流し込んでいます。

風の様子も描かれています。首筋に汗をかいていたためか、首筋が濡れています。そこに風が吹きつけたため、冷たく感じたのでしょう。その風は、いろんな草花の間をくぐりぬけてきた風なので、においがあります。薫風というやつですね。薫風といえば5月頃の、新緑のシーズンを表す言葉ですが、ちょうど笹百合が花をつけるシーズンと重なります。

空気が澄んで、夜空には星が群れになっているのが見えます。

それらの光景が、当たり前のように、目の前に広がっているというわけです。田舎は、すごいですね。



必ず届くと信じていた幻

言葉にまみれたネガの街は続く

さよなら さよなら 窓の外の君に さよなら言わなきゃ

「言葉にまみれた街」というのは、都会のことです。都会は、看板とか多いですよね。こっちは現実です。

「幻」と表現されているのは、都会ではない方、つまり、田舎です。田舎の光景は、「僕」にとっては幻だったわけです。

僕の目には、田舎に比べると、都会の「ネガ」さが気になってしょうがないようです。

ネガとは、昔の写真に使われていたネガフィルムのことです。ネガフィルムを見たことはありますか? 景色や色調が現実のものとは反転しています。田舎の色彩豊かな景色をみていた僕にとっては、都会のゴミゴミした景色を現実世界のものとして認めたくない、というぐらいにまで、なっているのです。

この場合、なぜそうまで見え方が違っているのか、ということが、話のキモになっているのだと思います。それだけ、田舎の生活を共に送ろうとしていた彼女にサヨナラをしなければいけなくなったことが、心に重くのしかかっているのでしょう。



一番鶏の歌で目覚めて 彼方の山を見てあくびして

頂きの白に思いはせる すべり落ちてく心のしずく

根野菜の泥を洗う君と 縁側に遊ぶ僕らの子供と

うつらうつら柔らかな日差し 終わることのない輪廻の上

自然の美しい風景を楽しむことを、「花鳥風月」と言いますが、花、鳥、風が出てきます。月を星と言い換えるなら、すべての表現がでてきたことになります。こういう言葉の配置をきっちりするあたり、さすが詩人マサムネさんだなと思います。

ここも、自然の美しさを描写することに終始しています。最後「輪廻」という言葉が出てきますが、これは、春夏秋冬の季節において、植物や動物たちが生と死を繰り返している、田舎ならではの光景を目にしたのだと思います。この「輪廻」を体験できるくらい、僕はある程度長い期間、田舎に滞在していたのだと思います。

いや、輪廻、という言葉を登場させたのには、滞在期間の長さ以上の意味が込められているのだと思います。

僕と君と、君との子供が、ひとつ屋根の下で生活をしていた光景が、この言葉ひとつで表現されているようです。ひとは、ほかの誰かと出会って、恋をして、子供を産んで、死んでいく。そんな輪廻を、僕はこの田舎で経験したのだ、と。



あの日のたわごと 銀の箱につめて

さよなら さよなら ネガの街は続く

さよなら さよなら いつの日にか君とまた会えたらいいな

自然の雄大さに浸っていたと思ったら、ここで急に、現実に引き戻されます。都会の、ネガの街にて、君にさよならを告げる場面です。「僕」は、本来あるべき輪廻から独りはずれて、都会で生きることを決意したようです。

「銀の箱」なんですけど、これはいったい、なんでしょう? たぶんカメラのことだと思います。マサムネさんぐらいの詩人になれば、目に映らない言葉さえも、写真にうつすことができるのです。その写真を見れば、あの日のたわごと、景色、匂い、感情が鮮明に蘇ってくるのです。

もしくは、本当に銀の箱というアイテムがあったのかもしれません。

シェークスピアの「ヴェニスの商人」にて、銀の箱のくだりがあります。

3人の男性が富豪の女性に求婚したところ、金の箱、銀の箱、鉛の箱、の三つの箱が用意されました。正解の箱を選んだ男性の求婚を受け入れる、と女性はいい、3人に箱を選ばせました。結果、正解の箱は一番粗末な鉛の箱であり、鉛を選んだ一番貧乏な男の求婚を女性は受け入れたのです。

外れくじが入っていた銀の箱ですが、もし、この詞の銀の箱もまた、同じような役割なのだとしたら、「僕」は「君」にフラれたのでしょう。なので甲子園球児が集める土みたいに、彼女と一緒にいたことの証として、箱の中に田舎の思い出を詰めて閉じ込めた、ということかもしれません。



とまあ、長くはなってしまいましたが、正直、あまり解釈に迷うような部分って、そんなになかったと思います。感じたまま、素直に詞を作ったという感じですね。

とはいえ、この作文力には、圧巻です。こんなに美しい詞を書けるなんて、天才としか言いようがないですね。




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