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スピッツ「君が思い出になる前に」は、死別の曲です。~スピッツ歌詞解釈~

更新日:2023年7月22日



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツの名曲「君が思い出になる前に」を解釈していこうと思います。

もう、タイトルで身も蓋もないことを言ってしまっておりますが、そうです。この曲は、死別の曲です。

死ぬのは自分で、看取るのは、君です。

もう少し補足するとすれば、この曲が発表された時代の死生観というのは、今のとは少し違ったものでありました。

それは、「生は醜く、死は美しい」というものです。


この時代に生きる人の、生きることに対する執着は、とても強いものでありました。戦後の復興からの雰囲気が、いまだ濃厚に残っていたわけです。他人の飯のタネを奪って生きることが当然で、褒められさえしました。悪質な訪問販売、強引なセールス、詐欺が横行し、強引に金を儲ける企業がいい企業と宣伝され、学校で優秀な成績を収めた人材たちが、そんな企業への入社を強く希望していました。会社ではパワハラ、セクハラは当たり前で、上司からの殴る蹴るの暴力にも、性的な被害にも、じっと我慢して、我武者羅に生きてきたわけです。政治家はヤクザと当たり前のように癒着し、脅しと暴力と、金によって権力を固めていました。公道では違法に改造されたスポーツカーが走り回り、若い人々は熱狂的に、彼らのレースを応援していました。青春の代名詞である高校野球の甲子園大会が、多くの大人たちの賭け事の対象になっていたことは、その時代に生きていた人にとっては、当たり前のことです。


こんな野蛮な生き方を、「醜い」と感じていたのは、スピッツだけではないと思います。

良識的な大人なら、「死の美しさに比べたら、どんな生も醜い」と考えていたのではないのでしょうか。


今は「生」も美しくなりました。美しく生きることが正しいという価値観を持つようになってきました。「死」に憧れることこそが悪徳となりました。なので、この美しいマサムネさんの詞を「死の曲だ」と評することは、悪徳の片棒を担ぐことと見られちゃうかもしれません。「自死を勧める、悪い奴だ」と。

ただ、詞というのは、背景があって、成り立つものです。中国の詩聖と呼ばれた杜甫の「絶句」も、中国大陸の自然の豊かさと、故郷に簡単に帰れないほどの広大さという背景があって、美しく成り立つものです。マサムネさんが「死は美しい」と感じていた当時の背景を、生が薄汚れていた頃のことを念頭に置くと、よりくっきりと、その美しさが浮かび上がってくるのではないのでしょうか。



あの日もここで はみ出しそうな 君の笑顔を見た

水の色も風のにおいも 変わったね

明日の朝 僕は船に乗り 離ればなれになる

夢に見た君との旅路は かなわない

きっと僕ら 導かれるままには歩き続けられない

二度と これからは

「明日の朝僕は船に乗り離ればなれになる」この部分は、三途の川を渡る船に乗ることを指しています。明日の朝ということなので、「僕」の寿命は明日の朝までだということです。

この世に生きている限りは、「二度と」ということはありません。何かの拍子に再会することだってありえるでしょう。けんか別れしていれば話は違ってきますが、詞を眺める限りでは、そうでもなさそうです。それを言いきれる場面といえば、やはり死別以外には考えられないでしょう。

夢にまで見た君との旅路は、健康にしている頃には実現しようと努力していたのでしょう。無念が伝わってきます。

水の色も風のにおいも変わったと感じているのは、この数年で公害が発生していたりするわけではなく、「僕」の健康状態が悪くなったということでしょう。



君が思い出になる前に もう一度笑ってみせて

優しいふりだっていいから 子供の目で僕を困らせて

笑って欲しいと願っているのは、僕の身体が、笑えないほど危篤な状態にあるということです。

なので僕は、君の悲しむ顔しか観ることができないわけです。

そんな状態で「笑って」と言われても、君にとっては「そんなの無理!」となるかもしれませんが、僕にとっては、笑顔がみたいと思うのは不思議なことではありません。大好きな君の悲しむ顔を最後に、この世から旅立つのは、悲しいではありませんか。

「優しいふりだっていいから、子供の目で僕を困らせて」というのは、君の、僕に見せていた、いつもの表情だったのでしょう。このいつもの表情を、最期に見たいと願っています。



ふれあう度に嘘も言えず けんかばかりしてた

かたまりになって坂道をころげてく

追い求めた影も光も 消え去り今はただ

君の耳と鼻の形が 愛しい

忘れないで二人重ねた日々は

この世に生きた意味を越えていたことを

「追い求めた影も光も消え去り」の部分。死を目前にしている心境を、このような美しさで表現できる、マサムネさんの技量はどうでしょう。

光だけではなく、影も追い求めていた。生きるとは、つまりそういうことなのです。生きる醜さを、綺麗に描いています。

その生きる醜さから離れて、君の耳と鼻の形だけを愛おしく思っている場面。どこか非現実的な場面です。死の直前であることが想像されます。

「この世に生きた意味を越えていた」は、これが死の直前に言った言葉であるとするなら、言葉の重みは大変なものです。「僕の命のすべては、君との日々のためにあった。君はこれから、僕の死を乗り越えて活躍し、もっと多くの人を幸せにしていくことで、僕が生まれた意味があった」ということを言いたいのだと思います。僕の生命は、君の今後の活動の糧となることで、意味があったということです。



君が思い出になる前に もう一度笑ってみせて

冷たい風に吹かれながら 虹のように今日は逃げないで

虹のように消えていくのは、君ではなく、僕の意識のほうです。僕の意識がなくなっていく様子を描いています。

「今日は逃げないで」の部分は、明日は逃げてもいいと読み取れます。明日の朝には僕は、あの世に旅立ってしまうのですから。

だからこそ、今日は逃げないで、と願っているわけです。君がそばにいる今日、君の笑顔を見るまでは、僕の意識は霧散しないでと願っています。



いかがでしょうか?

この、ストレートな死別の曲。みなさんは、どう考えたでしょうか?

死別の曲を美しく描くことは、タブーだと思いましたか? 嫌悪感がありますか? たぶん現代の今を生きる人たちの感性だと、そうなってもおかしくないと思います。今のマサムネさんなら、死を美化するような曲は書かないか、もっと違った観点で、死を描くことでしょう。

でも、死は美しい、とされていた時代は、ほんの少し前までは、存在していたのです。死の美しさに憧れながらも、それでも生の醜さにしがみつく、したたかさで、誰もがその時代を生きていたのです。

そんな時代に想いを馳せながら、この死別の曲を見つめてみると、より美しさが感じられるのではないのでしょうか。





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