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スピッツ「僕はきっと旅に出る」にみる、旅とは何なのか?



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回はスピッツ「僕はきっと旅に出る」の詞を参考に、「旅」とは何なのかについて考察していきたいと思います。

私たちは、言葉の意味というものを、主に普段の会話とかで学習すると思います。「愛」とか「友情」とかはそうですよね。何も国語辞典を引っ張り出してきて、語句の意味をなぞって、「あ~これが愛ってことなのか~初めて知ったわ~」っていう理解の仕方はあまりしないと思います。小中学校の時に配布された国語辞典を全然引いたことない人でも「愛」や「友情」といった意味を、理解できています。それは、親、兄弟、友人知人との会話の中で、語句の意味を学習していったからなんですよね。

しかしながら。

私たちは本当に「愛」の意味を理解できているんでしょうか? 「友情」の意味を理解できているのでしょうか?

例えば、私が「愛」の意味を間違って使っていたとしたら、私にかかわる人の「愛」の意味が、変なものになるでしょう。「愛」をよく理解しないまま、愛を連呼していたら、私の友人知人たちは「愛」の意味を取り違えて学習してしまい、変な感じになってしまうでしょう。

私は八百屋さんなので、野菜や果物については詳しいはずなのですが、「愛」については、残念ながら詳しくありません。なので私がここで「愛」とはこういうものだ、と力説したとしても、間違っている可能性があるではありませんか。いや、間違っているとまでは言えないかもしれませんが、でも、理解が深くない、ということは十分ありえます。専門家じゃないので。

そういう意味では、詞の専門家であるスピッツの草野マサムネさんに、語句の意味を尋ねてみるのが、一番確実なんじゃないかなと思うのです。

マサムネさんは、言葉の意味を深く理解して、使いこなし、その結果、多くのファンに支持されています。彼の言葉の繊細さは、誰もが認めるところです。

そして「僕はきっと旅に出る」は、「旅」とは何か、ということについて、深く掘り下げてくれている詞なのだと思うのです。

国語辞典よりも、ウィキペディアよりも、「旅」について答えてくれている詞だと思うのです。

今回は、こういう観点で、この詞を眺めてみたいと思います。




笑えない日々のはじっこで 普通の世界が怖くて

君と旅した思い出が 曲がった魂整えてく

今日も ありがとう

まず、ここでいう「旅」とは、何を示しているのでしょう? これをくっきりさせておきたいと思います。

語句としての「旅」の意味は、他の地域や国を訪れ、自然の風景や食べ物、文化や史跡に触れることです。別名「旅行」とか「観光」ともいいます。

個人的な話ですけれども、私は「旅行」が苦手です。その土地のことに詳しくないと、楽しむことができないと思っているからです。新鮮組とかに詳しくないと、京都観光は楽しめないでしょうし、武田信玄に詳しくなければ山梨観光は楽しめないでしょうし、縄文時代に詳しなければ、青森観光は楽しめないと思っています。愛知に行くとしても、愛知の歴史などを何も知らなければ、少なくない旅行代金を支払って、わざわざエビフライやウイロウ、味噌煮込みうどんを食べに行くだけのようなものになります。そうなりがちなのです。

語句としての「旅」の意味になぞるなら、自然の風景や食べ物、文化や史跡に全部触れることで、「旅行」の目的が達成できるのです。「あ~高い旅行代金出しただけの価値があったわ~!」と思えることが、「旅行」にとっては重要だと、私は思っています。逆に言えば、高い旅行代金に見合うだけの経験ができなければ、「なんか損したな…家にいたほうが良かったわ……」と思ってしまいます。

みなさんは、どうでしょうか? 「旅」について、どう思っていますか? 旅先に何もなくても楽しめる派ですか? それとも私のように、コスパを重視してしまいますか?

あるいは、「ディズニーランドとか、特定の場所にしか旅行にいかない。行く意味がない」と思っているほうですか? そういう旅行もありますよね。

でも、「僕はきっと旅に出る」で語られている「旅」の内容は、上記の考え方とは少し違っているようです。

上記で述べたような、旅行代金の対価である「美味しい料理」とか「立派な文化」を求めていないようです。詞の中の、どこにも出てきません。ましてや「コスパ」なんて考えていたのでは、その領域に行き着くことができないように思います。

じゃあ、この詞で語られている「旅」とは、いったいどんなものなのか。これを見ていきましょう。

まず、「普通の世界が怖い」というところから、詞が始まっています。そうなんですよね。みんな日常をこわごわ生きています。頑張っても給料が上がらない一方で、パワハラ、カスハラに苦しむ労働問題。生活が苦しく、税金は高い一方で、汚い方法で金儲けをしている汚職政治家や不正悪徳企業。男女間の対立を煽りつつ、出生率の減少を嘆いている二枚舌のメディアに感化されて、みんな臆病になっている恋愛、結婚。自然災害により、亡くなった人。教育格差と貧困問題。……日常とは、これら全部と向き合うことなのです。私たちは、これら全部と真正面から向き合って、細い解決策を探りながら、なんとか日々の「笑えない」生活を送っているのです。改めてそう言われると、怖いですよね。

この日常の恐怖や疲労を、マサムネさんは、どう克服しているのでしょう?

それは「君と旅した思い出」に頼るようです。この思い出により、「曲がった魂」が整うようです。

「今日も ありがとう」とまで述べているあたり、このところ毎日毎日、恐怖と疲労で戦っていたようです。この詞が発表された頃といえば、東日本大震災の後でして、感受性の強いマサムネさんが疲労でぐったりしていた時期でもありました。毎日毎日、現地の悲惨な状況がニュースで流れているような時期だったのです。いい魂ほど、曲がってしかるべきだったでしょう。

こんな心の状況をケアしてくれたのが、「君と旅した思い出」だったようです。

どうですか? 自分に置き換えて考えてみると、コスパを考えて、得だった損だったと評定しながら旅行した思い出が、こういう心身が辛い状況のケアに、はたして役に立つでしょうか? 名古屋のヒツマブシはとても美味しいですけれども、心身がめっちゃ辛いとき、ヒツマブシを食べたことを思い出しても、そう対したケアにはならないんじゃないかなと。鎌倉大仏や鶴岡八幡宮を眺めた思い出が、心身のケアまで作用するかというと、熱心な神仏教徒なら作用するかもしれませんが、そうでない人には、心の支えとしては物足りないんじゃないかなと、思うのです。

でも、マサムネさん曰く、彼の中の「君と旅した思い出」は、心をケアしてくれるものだ、というのです。



僕はきっと旅に出る 今はまだ難しいけど

未知の歌や匂いや 不思議な景色探しに

星の無い空見上げて あふれそうな星を描く

愚かだろうか?想像じゃなくなるそん時まで

では、どんな「旅の思い出」が、マサムネさんにとって、心のケアになりえるのでしょう?

未知の歌や匂いや 不思議な景色」とのことです。もしくは、「星の無い空見上げて あふれそうな星を描く」行為だそうです。

でもそれを「愚かだろうか?」と自問しています。私たちのような「旅行」を考えている一般人には、あまり理解できないことかもしれません。コスパを考えた時、「いや、それはコスパ悪いよマサムネさん。そんなことをわざわざするなんて、愚かだよ~」と、私たちが呆れるかもしれない考え方だ、と言いたいのだと思います。

なるほど確かに、旅行とは、美味しいものを食べたり、立派な建造物の前で写真を撮ることだとばかり私たちは思いがちですが、なにも観光用に整備された場所を観光することだけが、旅行ではありません。そういう、整備された場所というのは、今の時代、インターネットでいくらでも閲覧できます。そうではなく、「未知の歌や匂いや 不思議な景色」に触れることが、マサムネさんにとって、価値のあることらしいです。

実は私も、この曲に感化されて、「まだあまり知られていない、福井の何かを探してみよう」という意識で、福井のあちこちを数年かけて巡ってみました。みなさん福井って、何を思い浮かべますか? たぶんソースカツ丼とカニと恐竜だと思うんですけど、そういうデフォルメされていない部分の福井を、探ってみたいなと思いまして。福井には、今の天皇家のルーツがあったり、百済や新羅、高句麗といった国々との交易で栄え、幕末には松平春嶽や橋本佐内、由利公正といった俊傑が出て、戦前はウラジオストク経由でベルリンまで行く交通ルートが確立されていたりしました。これらの存在は、その後の日本史に多大なる影響を与えましたが、あまり知られていません。ソースカツ丼やカニを宣伝するのに一生懸命なあまり、歴史に埋没したままになっているのです。

私は、これらを探しているうちに、ひとつ、心の変化に気が付きました。探し求めてきた福井の歴史と、自分自身が、同化していくような感じになっているのです。いわば、「福井に詳しい」というのが、私の一つのアイデンティティになっていったのです。

この私の体験談から考えると、マサムネさんもまた、旅で得られた知識や経験が、彼のアイデンティティになっていく感覚があったんじゃないかなと。

マサムネさんの感受性をもってすれば「未知の歌や匂いや 不思議な景色」で得られた知識や経験は、膨大なものになるでしょう。そうやって得られたものは、すべからくマサムネさんの血肉になり、それを元に、質のいい楽曲としてアウトプットしていく。そんないい流れを、「旅」によって確立できたんじゃないかなと。

これなら、ケアにもなりそうですよね。何か嫌なことに直面したとしても「俺は、未知の歌や匂いや 不思議な景色をよく知っている人物なんだぞ」という気持ちになれます。アイデンティティにまで昇華されることができれば、それも可能だと思うのです。

まあでも、この流れをうまく他人に説明できないので、「ひとと違うので、愚かだろうか?」だなんて、とぼけているんじゃないかなと。



指の汚れが落ちなくて 長いこと水で洗ったり

朝の日差しを避けながら 裏道選んで歩いたり

でもね わかってる

これも、すさんだ日常の辛さを表現しているパートだと思います。みなさんの周りでは、不正と思われる事柄があるでしょうか? 不正が当たり前の企業で働いている人にとっては、不正が日常です。「このぐらい、どこでもやってるぞ」と上長に言われれば、そう自分を納得させるしかないでしょう。私は個人事業主なので、不正を指示されることはなくて幸福なんですけど、まだ雇われていた頃は、数々の不正を見聞きしてきました。不正に関わるのが嫌で、難を逃れて独立した側面もあります。

こういう事例を見聞きしているので、この詞の部分の気持ちは、痛いほどわかります。不正に手を染めれば、汚れは何をしても落ちません。その不正の状況になれることでしか、心の解決のしようがないのです。「長いこと水で洗ったり」しても、顧客を裏切った心のしこりはずっと残り続けます。なので、「裏道選んで歩いたり」することしか、できなくなってくるのです。生活のためと思って不正に目を瞑っている間は、堂々と生きられなくなってくるのです。



またいつか旅に出る 懲りずにまだ憧れてる

地図にも無い島へ 何を持っていこうかと

心地良い風を受けて 青い翼広げながら

約束した君を 少しだけ待ちたい

さて、1番ではあくまで「観光」と「旅」の違いを解説してきましたが、「旅」という言葉からは、「観光」よりもっと広義なものを感じます。「かわいい子には旅をさせろ」という慣用句がありますとおり、旅行そのものよりも、旅先での経験のほうに重点がある使い方もあるのです。

2番では何を言いたいのかというと、平たく言えば「今いる悪い環境を抜け出して、結婚して家庭を持ったり、転職したりしよう」ということなんじゃないかなと。

今いる環境が、指の汚れが落ちないほどの不正にまみれているなら、そこから旅に出て、新しい環境を探そう、と勧めています。「地図にも無い島」つまり新しい知らない環境で暮らすために「何を持っていこうか」つまりそのために何が必要なのかを、調べて準備しよう、と勧めているのです。

ブラック企業とかにお勤めの方などは、退職を申し出た際、「逃げるのか!」と脅されたりします。いや脅されなくても、自分から「これは逃げじゃないのか…」と悩んだりします。が、違います。

この詞のように、軽やかな気持ちで「人生の旅」をすればいいのです。もし現状が困難なら、「心地良い風を受けて 青い翼広げながら」という気持ちで、前向きに退職してみてはいかがでしょうか? 

人生は、旅そのものなのです。アナタの旅の終着点は、ブラック企業で不正に手を染めることでしたか? それが耐えられないなら、翼を広げて飛び立つしかありません。新しい行先に向かって、歩を進めていくしかないのです。

そして、何もお仕事だけが人生ではありません。人生という旅を続けていれば、待っている人、待つべき人も現れるでしょう。「約束した君」との合流を待ちましょう。旅を続けてさえいれば、きっと目の前に現れてくれるでしょう。



きらめいた街の 境目にある 廃墟の中から外を眺めてた

神様じゃなく たまたまじゃなく はばたくことを許されたら

ここは、旅立つ前の心境、という感じがします。

自分のいる立ち位置が「廃墟」だという認識があって、かつその外を眺めてみると、「きらめいた街」が見えている状態。この認識ができてはじめて、旅をしなくちゃ、という気分になれるのです。自分の立ち位置が一番居心地がいい、と思っているうちは、旅をしても何も起こりませんし、立ち位置も見えている景色も廃墟だったら、どこに行こうと一緒だ、と落胆してしまうでしょう。目指すべき場所を見つけて、そこがきらめいていることを発見することが、旅のはじまりなのです。



僕はきっと旅に出る 今はまだ難しいけど

初夏の虫のように 刹那の命はずませ

小さな雲のすき間に ひとつだけ星が光る

たぶんそれは叶うよ 願い続けてれば

愚かだろうか?想像じゃなくなるそん時まで

私たち人間の人生は、だいたい100年ぐらいあるようですが、100年って、長いでしょうか? 短いでしょうか?

マサムネさんは、短いと思っているようです。「初夏の虫のように 刹那の命」だと思っています。マサムネさんは、密度の濃い旅をしたいと思っているのですが、それをするには、命がいくつあっても足りない、と考えているようです。やりたいことが、めっちゃあるみたいです。この表現からは、そう伺えます。

「小さな雲のすき間に ひとつだけ星が光る」とは、マサムネさんから眺めた、私たちのことなんじゃないでしょうか。人生という旅を、目的をもってやり続けた結果、なにか煌めく星になることができたとしたら、マサムネさんからも見えるようになるではありませんか。

「たぶんそれは叶うよ 願い続けてれば」と、マサムネさんは、私たちの旅を応援してくれています




こんな感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?

マサムネさんの短い詞から、膨大な解釈を導き出してみました。この解釈は違っているかもしれませんが、私にこういう解釈をさせてしまうほど、ギュウギュウにいろんなモノが詰まっているような詞だと思うのです。

旅行に対する考え方、人生観、応援のメッセージ。「旅」というテーマを通じて、いろんな思いを伝えてくれるような、そんな詞になっていると思います。そして、そこから伝わってくるメッセージは、めっちゃ優しいものになっていると思うのです。



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