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スピッツ「ロビンソン」にみる、草野マサムネの妄想と願望とは...?~スピッツ歌詞解釈~

更新日:2023年7月22日




こんにちは。八百屋テクテクです。

さて、今回はめっちゃ長いので、いきなり本題に入っちゃいます笑

スピッツといえば、ロビンソンですね。

ファンの間では、「チェリー」「空も飛べるはず」と並び、御三家と称される曲です。

スピッツを知らない人でも、チェリー、空も飛べるはず、ロビンソン、の3曲は、どこかで耳にしたことがあるのではないのでしょうか。そのぐらい、有名な曲です。もちろん、彼らの数ある曲の中でも、もっとも売れた曲です。

そんなロビンソンですが、他の彼らの曲と同じく、とても謎めいた歌詞になっており、一見しただけでは、何を表現した曲なのか、よくわからない歌詞となっております。

スピッツのファンであればあるほど、ロビンソンの解釈に迷うことでしょう。テレビ番組などでスピッツの曲が特集された時、スピッツのファンの芸能人やアーティストたちが登場し、ロビンソンの解釈について討論している、そんな場面を目にしたことが何度かあります。

私も中学二年の時にスピッツの曲に出会って以来、スピッツのファンです。

なので、どこまで迫れるかはわかりませんが、他のアーティストたちと同じく、ロビンソンの謎について、迫ってみたいと思います。



まず、スピッツのファンたちの間では、ロビンソンはどんな解釈がされているのでしょう。

もちろん、一番多いのは、「愛の歌」という解釈でしょう。「君が好きだよ」という愛の魔法で、誰も触れない二人だけの国を作り上げて、そこから逃げ出さないように君の手を離さなかったり、終わらない愛の歌をうたったりしている。そういう解釈ができます。

一方で、「死の歌」という解釈をしている方もいます。「片隅に捨てられて呼吸をやめない猫」「夢のほとり(三途の川のほとりという解釈)」「生まれ変わるよ」など、死を連想させるワードがふんだんに盛り込まれています。もともとスピッツの曲は「死」がテーマだということを公言しており、実際に死を連想させる曲をいくつか出していることもあって、ロビンソンもまた死の曲なんじゃないか、という解釈も十分にうなづけます。



さて、八百屋さんである私がロビンソンを解釈すると、どんなふうになるのでしょう。

野菜の知識は、ロビンソンを解釈するのには、もちろん関係ありませんが笑



結論から申し上げると、これは、妄想と願望の曲だと思います。

彼女に対しては、自分の頭の中以外は、何も変わっていないし、何も干渉していない。そんな曲です。

上記に挙げた「愛の歌」や「死の歌」という解釈は、現実で何かが起こったことを示す、いわば動的な曲です。何かを成した曲となっています。それに対して、私が解釈したロビンソンは、いわば静的な曲です。現実には何も起こっていない、というのが、ロビンソンの前半のテーマなのです。

そして後半では、マサムネさんの願望が現れています。

何の願望か。それは、有名になりたい、という願望です。

いったい、どういうことなのか。それを順を追って解説していきたいと思います。



「新しい季節はなぜかせつない日々で 河原の道を自転車で走る君を追いかけた」

最初の部分ですが、自転車に乗っているのは、一体誰なのか、という解釈で盛り上がったことがあります。

自転車に乗っているのが君なら、追いかけるなら、相当全力で追いかけなくてはいけません。ぜえぜえハアハアになります

自転車に乗っているのが僕なら、シャーッとすぐに追いつくことができますね。

たしかマサムネさんは、この部分に対して「いやぁ自由に解釈してもらっていいですよ」という回答をどこかでしていたと記憶しています。その時は、どちらの解釈が正しいかは、明言しなかったんですね。

なぜ明言しなかったのか。もちろん「聴き手の解釈に任せる」というマサムネさんのスタンスがあったのだと思います。

が、一方で、この一連のやり取りを聞いたとき、「私たちは、とんでもない勘違いをしているのではないか」という疑念に駆られたわけです。

実は、「僕」は、「君」を走って追いかけていたわけじゃなかったのではないかと

もっといえば、君のあとを気軽に追いかけていいほど、君と親密な仲ではないんじゃないかと。

後の歌詞をなぞってみると、君と親密である決定的な表現が出てこないんです。「誰も触れない二人だけの国」にいるはずの君からは、どんな表情も読み取れません。一方で、君のことがめちゃめちゃ好きだということは、歌詞から痛いほど伝わってきます。

もしかすると、これは「僕」の「君」に対する片思いの曲なのではないか、と私は思ったんです。

そうなると、自転車に乗っているのは君ということになりますし、その後ろ姿を、僕は視線で追いかけた、ということになります。

ただ視線を向けているだけは、すぐ君に気づかれてしまうことでしょう。「何見てるの? 気味が悪いよ」ということに、ヘタすればなってしまうかもしれません。

でも君が自転車を漕いでる状態なら、後ろからいくら視線を向けても、気が付かれないでしょう。なので、普段は隠れながら君に視線を送っていた僕にとっては、安心して、ずーっと視線を君の背中に向けることができるというわけです。

この解釈が正解だったとしたら、マサムネさんが回答を濁したことにもうなづけます。

だって、どちらも不正解ですし、なぜ不正解なのかも、説明しづらいですからね笑

「なぜかせつない日々」と、せつない理由を説明できないのも、「君が好き」とは明言できない苦しさを表しているようです。



「思い出のレコードと大げさなエピソードを 疲れた肩にぶら下げて しかめつら まぶしそうに」

これ、何を表現したものなのか、ずっと疑問でした。なんでそんなに疲れているのかと。大好きな君と会えるなら、ちょっとは嬉しそうな顔をしていてもいいんじゃないかと。

そもそも、なぜ「僕」は「思い出のレコード」と「大げさなエピソード」をいつまでも肩にぶら下げているのか。思い出のレコードは、「ねぇねぇ君に聴いてほしいレコードがあるんだけど」とすぐに君に渡して聴いてもらえばいいんです。大げさなエピソードだって、「ねぇねぇちょっと聞いてよ」と君に話して、楽しんでもらえばいいんです。そうすれば、肩の荷も下りるのに。

でも、そうなんですよね。僕は、肩の荷を下ろすことができないんです。君に話しかける勇気が出ないばかりに。「君に聴いてもらいたいレコード」や「君に話したいエピソード」が溜まりに溜まって、苦しい状況にあるわけです。



「同じセリフ同じ時 思わず口にするような ありふれたこの魔法でつくり上げたよ」

ここからは妄想の世界にはいりまーす、と宣言している文章です。魔法は現実の世界には存在しないものですけど、唯一、妄想の世界なら、いくらでも作り上げることができます。ありふれた魔法は、君に恋している自分にとても効く、しかしながら自分にしか効かない、君との妄想の世界を作り上げる妄想なのです。

そして、その妄想の世界の引き金になっているのが、「同じセリフ同じ時」です。これはどういう意味なのかと考えたのですが、これはたぶんマサムネさんの、今まで作った曲たちです。あるいは、特定の曲を指しているのかもしれません。いずれにせよ、何かの楽曲であると思います。

曲なら確かに、同じセリフをなぞって歌うことになります。

その曲を奏でるときはいつも、君との時間を妄想している、ということなのだと思います。



「誰も触れない二人だけの国 君の手を離さぬように 大きな力で空に浮かべたら ルララ宇宙の風に乗る」

サビですが、前半と後半でぶつ切りになります。

「誰も触れない二人だけの国 君の手を離さぬように」の部分は、普通にサビを聴いただけだと、「僕」には「君」というパートナーがいて、彼女と愛の語らいをする場面になります。ストレートで爽やかな愛のカタチにみえます。

でも実は、この部分は、自分の殻に籠って、君との妄想の時間を過ごしている部分なのです。現実の君は、僕の存在なんて気にも留めていないでしょう。同じ時間、君は自宅で家族と食事などをしていて「かつ丼美味しいねぇ~!」とか言ってるかもしれません。現実には、僕とは違う時間を過ごしているんです。

妄想の中では、自分と彼女だけの国という、壮大なものを作り上げておきながらも、現実では彼女には何の干渉もせず、できずにいる自分。これが「二人だけの国」の正体です。

大きく盛り上がるサビの場面で、どんどん自分の奥底に潜ってしまうあたり、とてもマサムネさんらしいひねくれ方だと思います笑

そして後半の「大きな力で空に浮かべたら ルララ宇宙の風にのる」という部分。

前半で「君と僕が愛し合っている」という解釈をしているうちは、「あ~なんか愛の力が大きくなると、成層圏を突き抜けて宇宙までいくんだなぁ。愛の力は偉大だなぁ」みたいな、ワケのわからない解釈になると思います。

でも、「妄想に閉じこもっている」という解釈をしていたとしたら、この後半の部分は別の意味になります。

「妄想で作り上げた世界」が「大きな力で別の場所に移す」ことで「風にのる」

これをどう解釈するのか、ですけど、私は「妄想でも自分の世界を作り上げて、その巨大なものを曲に乗せて現実世界で発信することができたら、大きなブームという時代の風にのることができる」という解釈をしてみました。

実際、ロビンソンという曲は、その宣言通り、スピッツ史上最大のヒットソングになりました。

愛の歌でも、死の歌でもない、何者でもない曲。その妄想全開の曲の一文に込められた「宇宙の風にのる」という願望。自分が作り上げた巨大な妄想世界が、宇宙という、自分がいまだかつて経験したことのない、未知の領域に飛び込んでいく。風にのってどこまでも運ばれていく。これがロビンソンという曲に込められた、マサムネさんの想いなのだと思います。



「片隅に捨てられて呼吸をやめない猫も どこか似ている抱き上げて無理やりに頬よせるよ」

「片隅に捨てられて呼吸をやめない猫」は、いったい誰に似ているというのでしょう。

1番は、君に対する妄想世界と、それを曲として表現することで時代の風にのりたい、マサムネさんの願望の話でした。2番は、それを補強する形になっている、と感じます。

つまり、この死にそうになっている猫とは、自分自身と似ている、ということです。

ロビンソン発表前のスピッツは、「今にも売れそうな実力のあるバント」つまり「売れそうで売れてないバンド」として、世間では認識されていました。そういった背景を自分でも感じていて、こういう表現になっているのではないかと思います。苦しい胸の内が、現れているようです。



「いつもの交差点で見上げた丸い窓は うす汚れてるギリギリの三日月も僕を見てた」

2番は、死を連想させる表現が急に増えました。「呼吸をやめない猫」も「夢のほとり」もそうですし、「丸」から「三日月」へと欠けていくような表現もそうです。ロビンソンが、死の曲だと解釈される原因でもあります。

でも、この曲がマサムネさんが当時置かれていた状況、そして、マサムネさんが表現しようとしている世界観をふまえると、そう表現せざるをえない、と、理解することができます。

その、死を連想させる表現として、特に秀逸なのが、この「いつもの交差点で見上げた丸い窓は 薄汚れてるギリギリの三日月も僕を見てた」の表現でしょう。この、「丸」から「三日月」へとサラリと満ち欠けを自然に当てはめるところ。それに加えて「薄汚れている」という、不穏な言葉を加えることで、死への暗示を示している点。芸術点高いですね。

でも、歌詞を全体として眺めてみると、これは死そのものを表現しているのではなく、死を含めた自分の世界観を、みんなに聴かせたい、という願望を表現しているのだということがわかります。

1番目の愛の部分、そして2番の死の部分。これはマサムネさんが表現しようとしている世界観を、あますところなく表現したと言えるでしょう。



「待ちぶせた夢のほとり 驚いた君の瞳 そして僕ら今ここで生まれ変わるよ」

「誰も触れない二人だけの国」が、現実世界のものではないというのが、ここでもわかります。

夢の中でありながら、「君」が僕と会った際、初めて会ったかのように驚いているのは、僕が君と出会う場面を、ずーっと繰り返し妄想しているからでしょう。

でもまぁ、1番で「ここは妄想の世界だ」という前提のもとに歌詞を解釈していたとしたら、この部分の表現は、さほど斬新だとは思わないでしょう。自然と、あぁ妄想なんだね、と理解することができます。

私が問題としたいのは、この後の「そして僕ら今ここで生まれ変わるよ」という部分です。

普通に解釈していたのだとしたら、「僕ら」というのは、「君と僕」ということになります。

でも、そう解釈したら、ちょっと変なんですよね。

だって、夢のほとりにいる時点で、君はすでに、僕の妄想の世界の中にいるんですから。君が生まれ変わる必要なんてないわけです。

ましてや、僕まで生まれ変わる必要性が、よくわかりません。妄想の世界なんで、何でもアリといえばアリなんですけど。

でも、もしかすると、「僕ら」とは、「二人だけの国」の中にいる「君」と「僕」ではないのかもしれません。

生まれ変わるのは、マサムネさんと、スピッツのメンバーだという解釈もできるのではないのでしょうか。

先ほども申しましたとおり、ロビンソンは、全体を通してみると、マサムネさんが持つ世界観を、時代の風に乗せるという曲なわけです。

そして「売れそうで売れないバンド」から「誰もが知っている有名バンド」に生まれ変わりたいという願望が見え隠れしています。

ということは、この「僕ら」というのは、スピッツそのものだということにはなりませんか。



「誰も触れない二人だけの国 終わらない歌ばらまいて 大きな力で空に浮かべたら ルララ宇宙の風に乗る

大きな力で空に浮かべたら ルララ宇宙の風に乗る ルララ宇宙の風に乗る」

1番との違いは、「終わらない歌ばらまいて」という部分です。

違いは、この部分だけですが、1番と意味が大きく違ってきそうです。

1番は、君と僕による愛の世界が焦点でしたが、2番は、ファンが焦点になっているからです。

歌う対象が君ひとりなら、ばらまく、という表現にはなりませんよね。終わらない歌をばらまく対象が、君ではなく、スピッツの曲を聴きたいと願うファンに向けてになっているのです。

その思惑どおり、マサムネさんは、妄想で描いた君との世界を歌うことで、私たちスピッツのファンの心を、がっちり掴むことに成功したわけです。

また、「大きな力で空に浮かべたら ルララ宇宙の風に乗る」を何度も繰り返します。

「二人だけの国」という、君への愛の表現より「宇宙の風にのる」ことを強調したいという思惑があったようです。

それにより、ロビンソンで主張したい主軸が、どこにあるかを表しているようです。

君に対する恋愛よりも、売れたいという願望のほうに主軸があります。

私は、そう解釈しました。



昔ドイツに、ゲーテという世界最高峰の知力をもつ人がいたのですが、彼が表した「ファウスト」という戯曲の構成が、ロビンソンと似ているな、と感じました。

「ファウスト」の一部は、少女マルガレーテとの愛の交流を、二部は政治という大舞台で国々との交渉を描いていて、最期には天使となったマルガレーテに見守られて天国に召されるという結末なのですが、この壮大な世界観を、どことなくマサムネさんのロビンソンにも感じるようです。

これまでロビンソンの世界観を長々と解説してきましたが、端的に言ってしまえば、相手にもされていない「君」に対する妄想という話です。どこにでもある、いやむしろ、勇気が出ない、ちょっと情けない部類の、平均より下の、人間の心境です。

でも、その情けなさを、正直に、ありのままに、かつ綺麗に表現したのが、マサムネさんの世界です。

でもロビンソンの2番では、死と隣り合わせの鬱屈した気持ちと、売れたい、大きな舞台に立ちたい、という強い想いが全面に出てきます。

「ファウスト」も「ロビンソン」も、触れれば触れるほど、その世界観に圧倒されます。広すぎて、歩いても歩いても端までたどり着くことができないんです。

そんなパワーを、ロビンソンから感じ取ることができるわけです。

ロビンソンは、公式的にはマサムネさんに「地味だ地味だ」と言われていて、シングルカットをするべきかを悩んでいたほどらしいですけれども、歌詞を眺めてみれば、決してそんなことはありません。マサムネさんの世界観すべてが、ぎゅうぎゅうに詰まっている曲なのですから。

もっとも、そういう歌詞だからこそ、地味目(と自分たちでは評している)なサウンドで味付けをしようとするヒネクレ度が、スピッツらしいところではあります。



ロビンソンは、すごいですね!



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