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風待くだもの店~その7~

更新日:2021年6月23日



それから数日たっても、少年のもとには、世界史のノートが戻らなかった。

連絡手段がなかった。

岩倉さんの携帯電話は、たぶん、取り上げられてしまっている。

家族が管理しているか、ヘタすれば警察が管理しているんだろう。

とにかく、メッセージを送っても電話をかけても、なんの反応もなかった。


このままノートが戻ってこなかったら、誰かに見せてもらうしかない。

見せてもらったとしても、今までの授業分を写すには、どれだけ時間がかかるのだろう。……


暗澹たる気持ちを抱えたまま、下校する。

駅前のシャッター街を歩いていると、アーケードの柱に寄りかかって、ぼーっと空を眺めている、私服姿の女の子を見かけた。

誰かを待っているような、そんな素振りだった。

それが誰だかわかった彼は、嫌な顔をした。彼女を見るまでは、そんなつもりはなかったけれど、どうしようもないぐらい、自分でも嫌な顔になっている、ということがわかった。


どうして、こんなことになったんだろう?


ずっと考え続けているけれど、答えがでない。

どうしたらよかったのかも、わからない。

これからどうすればいいのかも、わからない。

わからないことに疲れてしまって、答えをだすのが憂鬱になってしまっている。

それが、彼女を見た瞬間、はっきりと自覚した。

自分は、岩倉さんから逃げたがっている。彼女との面倒を、避けたがっている。


世界史のノートは、誰かに写させてもらうことを、この場で決意した。

世界史のノートを返してもらうことより、誰かのノートを借りてそれを写したほうが、結局のところ、労力が少なくて済む、と思った。

彼女に見つからないよう、踵を返して、別の道を歩こうとした。


「坂谷!」


彼女から、声をかけられた。

そういえば、声をかけられるのは、いつも後ろからだった。

声をかけられたくなかったら、背中を見せちゃいけなかった。


「ねぇ、どこいこうとしたの? 坂谷のこと、待ってたのに!」


彼女は、やはり少年に怒りをぶつけた。

でも同時に、泣きそうな声でもあった。

頬や額には、痣が痛々しく残っている。その傷が、あの騒動は事実だったんだと、少年に思い起こさせた。


「でも、よかった。こうして会えて。坂谷はいつもこの道を通るからさ、ずーっと待ってたんだよ。ねえ、どこかお茶しない?ちょっと相談したいことがあるんだけど」


「お茶?」


「あっ、私、今日お金もってないんだ。どこか入るなら、最悪安いところでも我慢するよ。アンタもそんなにお金もってないだろうから、あんまり負担かけちゃ悪いからね」


「相談って何?」


「あとで話すから、ねっ、とりあえず、行こ?」


岩倉さんは、少年の腕に、自分の腕を絡めてきた。

彼女の髪から、以前と同じ、大人の匂いがした。

嫌悪感が込み上げた。

大人というのは、こんなに酷い匂いがするものなのだろうか。

酷い匂いだと思えるのは、自分がまだ大人になりきれていないからだろうか。

少年は、腕を振りほどいた。

岩倉さんは、一瞬驚いた後、少年が自分の思い通りにならないのに、カッとなった。


「なんなの? せっかく誘ってるのに。なんで? 何が気に入らないのよ?」


「お茶するなら、いい場所知ってるんだ。雰囲気もいいし、店員のお姉さんは穏やかだし、そこで使っている果物は、みんな美味しいって言ってる。おすすめは、梅のジュースなんだって。ちょっと高いけど、でもぼくは、今、その梅ジュースが飲みたい気分だな」


「なら、そこでいいよ。そこに行こうよ」


「今朝、お店の前を通ったけど、今日は閉まってた。だから行けない」


「何よそれ。閉まってるなら、別のところに行かなきゃ、しょうがないじゃん。いいから、別のところで我慢してよ」


「いやだ」


少年の断り方が、いかにも幼稚だった。

少年には少年の思惑があってのことだけれど、岩倉さんにとっては、幼稚に思えた。彼女は怒りを通り越して、あきれていた。


「もうっ、なんでこんなにガキなのよ! 今日は、今後のこと、ちゃんと相談しようと思って来たのに。そんなんじゃアンタ、東京でやっていけないわよ!」


「今後のことって、何?」


「だから、それを話すから、どこか別の……」


「今後は、ないよ」


「えっ」


「君との今後は、ない」


彼女は、口を開けたまま、とまった。

信じられない、という顔をした。

あまりの驚きに、言葉が詰まった。


「……どうして? どうして、そんなことを言うの?」


「岩倉さんこそ、どうして、今後があると思ったの?」


「だって、アンタは私の彼氏でしょう?」


「…………」


少年は、ただ黙って、彼女を見つめた。

彼女は焦ったのか、違うの、と聞いてもいないのに、自分の弁護をはじめた。


あの騒動のことを気にしているのかもしれないけれど、私は売春をしていない。やっていたのはあの二人で、私は話を合わせていただけ。年上の男性とのお付き合いはあったけど、お金は貰ってない。なのに、一緒に売春をしていることにされてしまった。私は、あらぬ疑いをかけられて、学校も辞めさせられそうになってる。こんな可哀そうなことって、ある? 私は、あの騒動の被害者よ。


続けて、誰と恋愛しようが自由のはずよ、から始まる、彼女の恋愛観を聞かされ、その後、先生たちやクラスの女子たちは、恋愛上手な自分に嫉妬してるのよ、だからこんな大げさなことになったの、私は可哀そう、という話になり、さらに、こんな可哀そうな自分を助けないのは、彼氏失格だ、責任をもって、私を助けなさいよ、と再び顔を真っ赤にして、少年を責めだした。


「私たち、付き合うときに、誓ったよね? 一緒に東京いくって。一緒に住もうって。だから私、一生懸命勉強しようとしたのに……。もう、大学、行けないかもしれない……」


怒っていたと思ったら、今度は涙をボロボロ流して、泣き出した。

このシャッター通りを通る人は少ないけれど、いや少ないからこそ、この二人のやりとりを、誰もが必ず振り返ってみていた。注目の的だった。少年は、彼女の言う通りに、お店に入らなかったことを、後悔した。


でも、彼女のほうは、もはや周囲を気にする状態ではないらしい。

自分と少年以外、なにも見えなくなっているようだった。



「私が退学になって、大学にいけなくなっても、東京には行こうと思う。もうこんな街はイヤ。東京に出て、アンタと一緒に住んであげる。ご飯も作ってあげるよ。そうやって、一緒にバイトして節約すれば、お金も貯まるよね。私そのお金で、将来オシャレなカフェでも開きたい」


ね、いいでしょ? と彼女は泣きながら、少年に笑いかけた。




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