それから数日たっても、少年のもとには、世界史のノートが戻らなかった。
連絡手段がなかった。
岩倉さんの携帯電話は、たぶん、取り上げられてしまっている。
家族が管理しているか、ヘタすれば警察が管理しているんだろう。
とにかく、メッセージを送っても電話をかけても、なんの反応もなかった。
このままノートが戻ってこなかったら、誰かに見せてもらうしかない。
見せてもらったとしても、今までの授業分を写すには、どれだけ時間がかかるのだろう。……
暗澹たる気持ちを抱えたまま、下校する。
駅前のシャッター街を歩いていると、アーケードの柱に寄りかかって、ぼーっと空を眺めている、私服姿の女の子を見かけた。
誰かを待っているような、そんな素振りだった。
それが誰だかわかった彼は、嫌な顔をした。彼女を見るまでは、そんなつもりはなかったけれど、どうしようもないぐらい、自分でも嫌な顔になっている、ということがわかった。
どうして、こんなことになったんだろう?
ずっと考え続けているけれど、答えがでない。
どうしたらよかったのかも、わからない。
これからどうすればいいのかも、わからない。
わからないことに疲れてしまって、答えをだすのが憂鬱になってしまっている。
それが、彼女を見た瞬間、はっきりと自覚した。
自分は、岩倉さんから逃げたがっている。彼女との面倒を、避けたがっている。
世界史のノートは、誰かに写させてもらうことを、この場で決意した。
世界史のノートを返してもらうことより、誰かのノートを借りてそれを写したほうが、結局のところ、労力が少なくて済む、と思った。
彼女に見つからないよう、踵を返して、別の道を歩こうとした。
「坂谷!」
彼女から、声をかけられた。
そういえば、声をかけられるのは、いつも後ろからだった。
声をかけられたくなかったら、背中を見せちゃいけなかった。
「ねぇ、どこいこうとしたの? 坂谷のこと、待ってたのに!」
彼女は、やはり少年に怒りをぶつけた。
でも同時に、泣きそうな声でもあった。
頬や額には、痣が痛々しく残っている。その傷が、あの騒動は事実だったんだと、少年に思い起こさせた。
「でも、よかった。こうして会えて。坂谷はいつもこの道を通るからさ、ずーっと待ってたんだよ。ねえ、どこかお茶しない?ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「お茶?」
「あっ、私、今日お金もってないんだ。どこか入るなら、最悪安いところでも我慢するよ。アンタもそんなにお金もってないだろうから、あんまり負担かけちゃ悪いからね」
「相談って何?」
「あとで話すから、ねっ、とりあえず、行こ?」
岩倉さんは、少年の腕に、自分の腕を絡めてきた。
彼女の髪から、以前と同じ、大人の匂いがした。
嫌悪感が込み上げた。
大人というのは、こんなに酷い匂いがするものなのだろうか。
酷い匂いだと思えるのは、自分がまだ大人になりきれていないからだろうか。
少年は、腕を振りほどいた。
岩倉さんは、一瞬驚いた後、少年が自分の思い通りにならないのに、カッとなった。
「なんなの? せっかく誘ってるのに。なんで? 何が気に入らないのよ?」
「お茶するなら、いい場所知ってるんだ。雰囲気もいいし、店員のお姉さんは穏やかだし、そこで使っている果物は、みんな美味しいって言ってる。おすすめは、梅のジュースなんだって。ちょっと高いけど、でもぼくは、今、その梅ジュースが飲みたい気分だな」
「なら、そこでいいよ。そこに行こうよ」
「今朝、お店の前を通ったけど、今日は閉まってた。だから行けない」
「何よそれ。閉まってるなら、別のところに行かなきゃ、しょうがないじゃん。いいから、別のところで我慢してよ」
「いやだ」
少年の断り方が、いかにも幼稚だった。
少年には少年の思惑があってのことだけれど、岩倉さんにとっては、幼稚に思えた。彼女は怒りを通り越して、あきれていた。
「もうっ、なんでこんなにガキなのよ! 今日は、今後のこと、ちゃんと相談しようと思って来たのに。そんなんじゃアンタ、東京でやっていけないわよ!」
「今後のことって、何?」
「だから、それを話すから、どこか別の……」
「今後は、ないよ」
「えっ」
「君との今後は、ない」
彼女は、口を開けたまま、とまった。
信じられない、という顔をした。
あまりの驚きに、言葉が詰まった。
「……どうして? どうして、そんなことを言うの?」
「岩倉さんこそ、どうして、今後があると思ったの?」
「だって、アンタは私の彼氏でしょう?」
「…………」
少年は、ただ黙って、彼女を見つめた。
彼女は焦ったのか、違うの、と聞いてもいないのに、自分の弁護をはじめた。
あの騒動のことを気にしているのかもしれないけれど、私は売春をしていない。やっていたのはあの二人で、私は話を合わせていただけ。年上の男性とのお付き合いはあったけど、お金は貰ってない。なのに、一緒に売春をしていることにされてしまった。私は、あらぬ疑いをかけられて、学校も辞めさせられそうになってる。こんな可哀そうなことって、ある? 私は、あの騒動の被害者よ。
続けて、誰と恋愛しようが自由のはずよ、から始まる、彼女の恋愛観を聞かされ、その後、先生たちやクラスの女子たちは、恋愛上手な自分に嫉妬してるのよ、だからこんな大げさなことになったの、私は可哀そう、という話になり、さらに、こんな可哀そうな自分を助けないのは、彼氏失格だ、責任をもって、私を助けなさいよ、と再び顔を真っ赤にして、少年を責めだした。
「私たち、付き合うときに、誓ったよね? 一緒に東京いくって。一緒に住もうって。だから私、一生懸命勉強しようとしたのに……。もう、大学、行けないかもしれない……」
怒っていたと思ったら、今度は涙をボロボロ流して、泣き出した。
このシャッター通りを通る人は少ないけれど、いや少ないからこそ、この二人のやりとりを、誰もが必ず振り返ってみていた。注目の的だった。少年は、彼女の言う通りに、お店に入らなかったことを、後悔した。
でも、彼女のほうは、もはや周囲を気にする状態ではないらしい。
自分と少年以外、なにも見えなくなっているようだった。
「私が退学になって、大学にいけなくなっても、東京には行こうと思う。もうこんな街はイヤ。東京に出て、アンタと一緒に住んであげる。ご飯も作ってあげるよ。そうやって、一緒にバイトして節約すれば、お金も貯まるよね。私そのお金で、将来オシャレなカフェでも開きたい」
ね、いいでしょ? と彼女は泣きながら、少年に笑いかけた。
続きは、こちら。
美味しい果物はこちら。
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