今日は、「魔法のコトバ」について解釈していきたいと思います。
この歌詞は、どんなシチュエーションを歌った曲なのでしょう。
この曲、実は私と妻の結婚式の際、スピッツが好きな友人たちが、おのおのの楽器を持ち寄ってサプライズで演奏してくれた曲でして、個人的にはとても印象深い曲です。おかげさまで、素敵な結婚式になりました。
スピッツを特に知らない親戚でも、「結婚式の中でもあの演奏が一番よかった」とほめてくださっておりました。いや~ありがたいですね。本当に。
友人の解釈では、「魔法のコトバ」は、結婚式にふさわしい、素晴らしい愛の曲だということになっているのだと思います。詳しくは存じ上げないのですが、この曲は、大学生たちの恋愛を描く青春群像「ハチミツとクローバー」の映画の主題歌として採用されています。みずみずしい青春を彩るのにピッタリの曲だと思います。
というわけで、これはみずみずしい、綺麗な青春を描いた曲です、と結論づけたい曲なのですが、実は私は違う解釈をしています。
魔法のコトバは、別れの曲です。
えっ。これだけ祝福してもらっておいて、なんてヤツだ、ひとの心がないのか、と言われちゃうかもしれないので、そこは黙って綺麗な青春の曲ということにしておいてもよかったんです。あくまでも個人の解釈なんで、心の中でそう思っておけばいいんです。そうすれば、なんの波風も立ちませんし。
でもまぁ、結婚してから5年以上たっておりますし、もうそろそろ時効かなとも思います。正直に言っちゃっても、そんなに怒られないんじゃないかなと。
それに、魔法のコトバの演奏で祝福してくれたことについては、ここではとても言い表せないぐらい感謝しています。5年以上の月日がたった今でも、こうして話に出させてもらうぐらいですから。
なので、魔法のコトバが別れの歌だという解釈だったからといって、結婚式で演奏してもらったことの感謝が私の中で薄くなることはありません。そこは、最初に申しあげておかなくてはと思います。
さて、なぜ別れの歌なのでしょう。
ぱっと歌詞を眺めるだけでは、ただ二人が距離的に離れているだけにもみえます。会おうと思えば、すぐに会うことができる立ち位置なのかもしれません。
でも、会いたくても会えない、という気持ちが歌詞の中に現れています。
この、「離れているだけ」なのか「別れたから離れている」のかに焦点を当てて考えてみると、より理解が深くなるのではないかなと思います。
タイトルのとおり、約束しなくてもちゃと会えるのか、どうなのか。このあたりを見ていきたいと思います。
「溢れそうな気持ち無理やり隠して 今日もまた遠くばっかり見ていた 君と語り合ったくだらないアレコレ 抱きしめてどうにか生きているけど」
この部分では、別れたかどうかを判断することはできませんが、会えない状況であることは伝わってきます。過去に君と語り合ったことがあって、その場面を生きがいにして、生きている。どうにか生きているけど、という部分から、精神的に脆くなっていることがうかがえます。どうして自分がこんなに脆くなっているのかというと、気持ちを無理やり隠さなくてはいけない状況だからなんですね。
「魔法のコトバ 二人だけにはわかる 夢見るとかそんな暇もないこの頃 思い出しておかしくてうれしくて また会えるよ約束しなくても」
魔法のコトバというのは、二人だけで決めた合言葉みたいなものだと思います。その言葉をつぶやくだけで元気になれるとか。そういうのって、恋人同士で何か決めたりしている人がいるのでしょうか。私は特にないのでわかりません笑 あれば素敵だなとは思うのですが、よほど思い入れがないと、すぐに忘れてしまうんですよね。
高校時代の昔、友人で、とある歌詞の一部を愛の告白の際に使用して、成功した人がおりまして。そういう劇的な告白の仕方をしたのでしたら、それが魔法のコトバになる場合もあるでしょう。さすがに社会人になって分別がでてきたら、こういう告白の仕方を避けるでしょうけれど、個人的にはそういうの、もっとあってもいいと思います。ロマンチックですから。あとでネタにもできるし(本音)
それはいいとして、やっぱり会えない日々を、こうして思い出に浸ることで自分を慰めている様子が、ここでも描かれています。そして最後の「また会えるよ約束しなくても」という部分。この部分をどう解釈するかで、ずいぶん変わってくるんじゃないかなと思います。
約束しなくても会える、って、どういう状況なのでしょう。子供時代とかに、なんの約束もせずに友人宅に訪ねて行って「あそぼ~」って言えば、普通に遊べたと思います。でもこれは、大人になってからは、通用しないですよね笑 仮にそんな仲だとしても、会えない時間こんなに苦しい思いをするのは不自然です。普通は約束してから会うものですし、約束しなければ、会うことができません。
つまり、この別れは、普通の大人の立場として解釈すると、再開を約束していない別れなのです。また会えるよ、というのは、希望的観測にすぎないのです。
いつになるかわからないけれど、きっと会えるよ、と遠くに行ってしまう相手との別れ話の際に言われたとしたら「ああもうこの人は私と会う気がないんだな」と解釈するはずです。本当に何かの拍子に会えたとしても、再開して関係をやり直すつもりもないのだろう、とも。
そんな、見込みの薄い話を、本気で信じているところこそが、この曲の最大のポイントだと思います。
「また会えるよ 約束しなくても」その願いがかなわないと頭のどこかでわかってはいるけれども、でも願わずにはいられない。そういう葛藤が、せつないところです。
「倒れるように寝て泣きながら目覚めて 人混みの中でボソボソ歌う 君は何してる? 笑顔が見たいぞ 振りかぶってわがまま空に投げた」
精神的にボロボロになっている状況が、ここでも表されています。君と別れたことは、とても辛い出来事で、まだうまく自分のなかで消化しきれていない状況です。
それでも、「笑顔が見たいぞ」というわがままを、振りかぶって、えいっ、とぶん投げています。どんなに辛くても、会うべきではないと、頭ではわかっているからです。
「魔法のコトバ 口にすれば短く だけど効果はすごいものがあるってことで 誰も知らないバレても色あせない その後のストーリー分け合える日まで」
魔法のコトバは、すごい効果があるようです。そういうことにしたいようです。
また、誰かに知られても、効果が薄くなることはありません。そのぐらい、強い絆を感じるコトバのようです。
でもひとつ、気になることが。「その後のストーリー分け合える日まで」の部分です。「まで」がどこにかかってくるかで、二人に今後合う気があるのかないのかが決まってくると考えられます。
ストーリーを分け合える日がくる「まで」一旦さよならしよう、という意味の「まで」としてとらえるなら、これは再会を意味した言葉になります。今までの辛い感情は、再会によって一気に幸せな感情へと昇華することでしょう。
しかしながら、「魔法のコトバの効果はすごいものがあり、バレても色あせない」のが、ストーリー分け合える日「まで」続くという意味だったら、これは不幸な意味になります。今は思い出の中でキラキラと輝いている魔法のコトバの効果も、再会したら色あせてしまう、という意味になってしまいます。先ほどもチラッと言いましたが、再会したとしても、関係をやり直す気がないのだったら、そっけない態度に終始してしまうでしょう。そうなれば、キラキラした思い出が一瞬でぶち壊れてしまうわけです。それを想像したら、怖いことです。
なので、ストーリー分け合える日が来てはいけないということです。いけないというか、来ない、ということなのだと思います。
この、「まで」という、たった二文字の解釈で、意味が真逆になるという点、すごいと思います。サビの「約束しなくても」といい、重要な部分で重要な意味を込める技術が、さすがだなと思います。
細かく歌詞を眺めることで、こういう技術に気が付くところが、スピッツの面白い部分です。
「花は美しく棘も美しく根っこも美しいはずさ」
これ。大サビの部分ですが、いきなり植物の話になりましたが、この部分は比喩として難なく解釈できるでしょう。
花は、君との思い出の美しい部分。棘は、君との思い出の嫌な部分でしょう。それの両方が美しいと言っています。嫌な部分さえも美しいと言っているところからも、別れた後だということが推察できます。では、根っこは、いったい君のどういう部分について、語っているのでしょう?
はずさ、と言っていることから、これは自分ではちゃんと確認できない部分を表しているのだと思います。そもそも根っこって、地面に埋まっているものですから、美しいかどうかなんて、確認できないですからね。
でも、根っこは植物にとって一番重要な部分です。人間でも「根はやさしい」などとして使われるとおり、その人間の根幹を表現したりします。
この場合の「根っこ」は、自分と別れて以降の、君の話なのかなと思います。たとえ自分がいない生活でも、君は幸せに生きていっているだろう、ということを言いたいのかなと。
不思議なものです。辛い別れを経験して、自分がこんなに落ち込んでいたとしても、相手には幸せになってほしいと願える感情。これを経験できる人は、わりと少数派なのではないかなと思います。
別れた理由にもよりますが、別れた相手の不幸を願ったりすることって、よくあることだと思います。それこそ、浮気とかケンカとか、そういう理由で別れたとしたら、そうなるのも自然でしょう。相手の幸せなんて、望んだりしないと思います。
魔法のコトバの中での彼と彼女は、相手の深刻な過失がないにもかかわらず、別れたのだと思います。お互いまだ好きって気持ちを抱えていたけれども、それでも別れなければならなくなった。そんな相手に対して、想いを断ち切らなくてはいけないとわかっているけれども、想いを断ち切れない。そんな心境なのだと思います。
自分にとって、彼女は、もう思い出の中の人になった。思い出の中の彼女は、とても美しい。だから自分のいない未来でも、きっと美しいはずだ。そういう風に思っていると考えられます。
という感じで、魔法のコトバは別れの歌だという結論に至ったわけです。
となると、ひとつ、疑問があります。
なんで「ハチミツとクローバー」みたいな明るい青春群像劇に、別れの歌を採用したのか。
意味を吟味したうえでの採用だったとしたら、一見嫌がらせのような選択に思えるかもしれませんが、そうではない、と私は解釈しています。
むしろ、「会う者は別れる定め」という、青春群像の鉄則を忠実に表そうとするなら、魔法のコトバ以上のものはないと思っています。なぜなら、出会いと別れは表裏一体で、切り離すことができないものだからです。
なので、優れた判断だったと思いますし、見る人の、聴く人の、こころをつかまえてこれたのだと思います。
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