
こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「甘い手」について解釈していきたいと思います。
ブログタイトルにもありますとおり、甘い手とは、死神の手のことだと思います。そしてこの詞におけるマサムネさんの死に対するイメージは、とても甘いものだという設定になっています。なんとも不気味な話に聞こえますよね。
不気味に聞こえたそんなアナタのために、この詞における、甘い手=死神説を補強するため、最初に少しばかり解説をしたいと思います。
そもそも死とは、苦痛がない世界にいくことなのです。死と苦痛が同列に語られるのは実は違っていて、死ぬ寸前、つまり生きている時に苦痛があるのです。ナイフで刺されて痛いのは、そりゃあ生きているからです。死が怖いのも、生きているからです。
死神は、殺人鬼ではありませんので、生きているものに苦痛を与えることはありません。むしろ死神は、死んだあと人間を死後の世界に案内してくれる、死んだ人間のフォローをしてくれる、実は優しい存在なのです。
どうでしょうか? 死について深く考えたことのない人は、死神とか地獄とかゾンビとか、色々ごっちゃになっているんじゃないでしょうか。ごっちゃになったものを一絡げに、「怖い存在だ」ということになっているのではないのでしょうか。
でも、ひとつずつ分解してみると、「ああ死神って、実はこういう存在なんじゃないか」って、見えてくるものがあります。「死」というものを深堀りしたマサムネさんには、こういう、独自の世界観があるのではないのかなと、私は思うのです。
どうですか? 死神の手は甘い説、しっくりきそうですか?
これを踏まえて、順番に詞を眺めていきましょう。
遠くから君を見ていた
いつもより明るい夜だった
死神に目をつけられる、なんて表現はよく聞きますけれど、逆にこっちが死神のほうを見ている、なんてのは、あまり聞かないと思います。みんな長生きしたいので、死神には目をつけられたくないし、死神のことなんて考えたくもないからです。もし死神を見ていて、目が合っちゃったら、連れていかれちゃうかもしれないじゃないですか。
でも、マサムネさんは、「遠くから君を見ていた」とのことです。この詞が収録されているアルバム「ハヤブサ」を制作したのは、マサムネさんが31~32歳の時です。年齢的には、まだまだ死神からは遠い位置にいます。遠い位置にいながらも、死神のことをめっちゃ考えていたのです。
「いつもより明るい夜だった」とは、たぶん楽しい夜だったのだと思います。ロックバンドとして成功し、大勢のファンの関心を集めて、多額の収入を得ました。音楽を志したものとして、これ以上ないほどの大成功です。その一方で、目指すべき場所を失ってしまったのかもしれません。高い山の頂上に登れば、それ以上昇るべき場所がなくなります。マサムネさんには、頂上を極めたという喜びと同時に、ある種の閉塞感があったのだと思います。
なので、次の行先を、死に求めた。人生のもっとも明るい時に、死を求めたのです。
死神を見ていたのはマサムネさんですが、はたして死神は、それだけ魅力的な人だったのでしょうか。それとも、すでに死神に魅入られ、魅了され、操られてしまっているのでしょうか。
ゆっくりと歩みを止めて
言葉も記号も忘れて
「ゆっくりと歩みを止めて」は、死に向かっていることを想像させます。肉体的に、死に向かっている様子です。
「言葉も記号も忘れて」の部分は、逆に精神的な死を想像させます。
肉体的にも、精神的にも、死に向かっている様子です。
はじめから はじめから 何もない
だから今 甘い手で僕に触れて
「はじめから はじめから 何もない」とは、マサムネさんが虚無感を覚えている場面です。あれだけ成功したくてたまらなかったマサムネさんですが、自他ともに大成功したと認められるところまで到達したときに、「むなしい……」と思ってしまったのでしょう。これは、大成功したことのない私たち一般人からしたら、よくわからない感覚かもしれませんね。
稼いだ金で豪華な食事を食べ、高級な酒を浴びるほど飲んで、綺麗な女性にちやほやされ……みたいな毎日を経験したとき「楽しい!」と思える人は、幸せかもしれません。が、中には「これ、正直楽しくないし、一生懸命稼いでも、なんも意味なくね?」みたいに思ってしまう人もいるでしょう。マサムネさんは、たぶん後者だったのではないのでしょうか。
「だから今 甘い手で僕に触れて」と、死神に願っています。「この世の快楽は、ひととおり楽しんだ。栄光も手にした。なので、思い残すことはないよ。だから優しく別の世界へと連れて行ってくれ」と、死神にお願いしている部分なのかなと。
死は、生きるのが苦しい時に望むものですが、この時のマサムネさんもまた、生に苦しんでいたのかもしれません。絶望的な虚無感に襲われていたのでしょう。
遠くから君を見ていた
反射する光にまぎれた
「反射する光にまぎれた」は、栄光の光のせいで、死神の姿がぼやけてしまった様子なのかなと。栄光は、マサムネさんが願い続けてきたものです。なので、ずーっと「むなしい……」状態が続いているわけではなく、「そっかー、俺、めっちゃ頑張ったもんな。だからみんな、俺のファンでいてくれるんだよな。ありがとうなみんな……!」みたいな、感動に浸る瞬間もまあまああるのでしょう。その感動が「反射する光」になって、死神の姿をくらませます。
これは、はたから見たら嬉しい表現なのですが、虚無感に包まれ死を望んでいるマサムネさんにとっては、「反射する光」はむしろ邪魔な存在として、描かれています。
愛されることを知らない
まっすぐな犬になりたい
なので、「愛されることを知らない まっすぐな犬になりたい」と願っています。自分を愛してくれる人がいるから、死ぬに死ねないのです。もっと自分の命令に忠実な、まっすぐな犬のような生き物だったら、自分は死に向かって駆け足でかけていくのに、と。
くり返し くり返し 楽しみに
日をつなぐ 甘い手で僕に触れて
マサムネさんは夢見ています。いつか自分の枕元に、自分が恋焦がれた死神が現れて、自分を魂を奪っていくことを。くり返し、くり返し、楽しみにしています。そうやって「日をつな」いで、生きているのだそうです。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
こういう内容は、正直にエッセイとかにはできないでしょう。「俺、本当は死にたかったんだよね」だなんて公然と言おうものなら、とんでもなく心配されるに違いありません。ファンだったら、不安で不安で、夜も眠れないでしょう。ファンをそんな気持ちにさせてしまうのは、マサムネさんにとっても本意ではないでしょうし。
とはいえ、「死んでしまいたい…」っていう気持ち自体は、あってもいいと思うんです。そのモヤモヤした気持ちを、作品として昇華させることができれば、それは立派な創作活動なのです。いいモノが出来上がれば、「死んでしまいたい…」という気持ちもまたアーティストにとっては必要だったということです。
マサムネさんは、生の感情も負の感情も、心の中の鍋に投げ入れて、グツグツと煮込んで味付けをし、私たちに美味しい料理として提供してくれています。その料理の中身がなんであれ、私たちは喜んで食べて、楽しむことができています。楽しみ方はひとそれぞれですけれども、どうせなら、どんな食材で作られた料理なのかを推察することができれば、より料理を楽しむことができるし、料理人を愛することができると思うのです。
スピッツが好きな八百屋さんの記事一覧はこちらからどうぞ↓
Comments