スピッツ「楓」は、松茸の曲だった説~スピッツ歌詞解釈~



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「楓」について解釈していきたいと思います。

「楓」ですが、基本的には別れの歌だと、みなさん認識していらっしゃいますよね。問題は、どういう別れの歌だというふうに解釈すればいいのか、ということで、悩んでいる方が多い印象です。

恋人との別れでしょうか? それにしては、別れの理由がこれといって見えず、ただただ一方的に別れちゃった、的な印象です。置いてけぼり感があって、なんかしっくり来ないという意見があります。なるほどなるほど。

あるいは、死別かもしれません。死別は急なこともありますから、不自然ではありません。ただ死を嘆くにしては「僕のままでどこまで届くだろう」と、自分の行先を気にしている言葉で締め括っていたり、「聴こえる?」と呼び掛けたりしています。

もっとも、「死別」という方向性で解釈するとするなら、上記の部分は無理やりその解釈にねじ込んでしまえないこともないです。ただそうすると、世間一般で広く認識されている「これは恋人との恋愛的な別れの曲だ」という解釈と若干のズレが生じるので、これもまた、難しい話です。

まあ、そこらへんも含めて、自由な解釈ができるのもまた、楓の魅力であり、マサムネさんの作詞力の強さなのだと思います。



世間一般では、どう解釈しているかはさておき……。

「楓」を八百屋さん的に解釈したら、いったいどうなるのでしょう?

私は、樹木である楓の特徴から、この詞を見つめてみました。

楓は、秋に紅葉し、私たちの目を楽しませてくれます。冬になれば落葉して、死のシーズンを乗り越えて、春になればまた新しい緑色の葉をつけます。これを、ずっと繰り返すわけです。

つまり、楓は、秋が終れば見れなくなってしまって、いったんはサヨナラしなくちゃいけないけれど、また1年後には楽しめる、という期待が「僕のままでどこまで届くだろう」に込められているとしたら、どうでしょう? 「また次の秋が来るまで待ちきれないなぁ。僕の気持ちがそこまで続くかなぁ」という解釈をしたなら、楓に対する強い慕情が、ひいては、秋というシーズンに対する強い慕情が込められた曲だというふうに解釈できませんでしょうか?


というわけで、楓は、秋を代表する樹木です。つまりスピッツの「楓」は、秋に対する慕情を表現した曲だというふうに、私は解釈したわけです。

「楓」=秋の慕情説、なわけですが、もっと身近なものにフィーチャーすることで、もっと具体的にかみ砕いてみようかなと。

ここは八百屋さんらしく、もっとも秋を感じる題材をご用意いたしました。

そう。秋を代表する高級食材、松茸です。



忘れはしないよ 時が流れても

いたずらなやりとりや

心のトゲさえも 君が笑えばもう

小さく丸くなっていたこと

「忘れはしないよ時が流れても」つまり「食べ物の恨みは恐ろしく、ずっと遺恨が残り続ける」という導入から、この詞は始まっています。

いったい何をされたのかというと、「いたずらなやりとり」です。たとえば「松茸ご飯よ~」とカーチャンから出されたご飯が、実は普通のブナシメジご飯だったら、どうでしょう? 松茸の姿かたちを知らない子供時代のマサムネさんは、それを信じ込んで「わ~い」とありがたがってムシャムシャ食べていましたが、後に大ブレイクして、テレビ局の偉い人とかに高級料亭に呼ばれて、そこで出された本物の松茸ご飯を見た時、「あれ? これは松茸じゃないですね」とか、言っちゃったりしてたら、大変な失態です。偉い人には大笑いされて、マサムネさんは顔を赤くするしかないでしょう。同時に、カーチャンに対する恨めしい思いでいっぱいになるでしょう。なぜ、騙していたのかと。カーチャンにすれば、ちょっとしたイタズラのつもりでしたが、マサムネさんにとっては、「忘れはしないよ 時が流れても」となるはずです。

でも、そんなことはもう、どうでもいいんです。「君が笑えば」つまり、「松茸の傘が開けば」どんな思い出も、小さく丸くなると言っています。

「君が笑えば」の部分を「松茸の傘が開けば」とナチュラルに解釈してしまったので、どういうことかよくわからない人のために解説しますと、松茸というのは、傘が開くと、とてつもないいい香りがするのです。一般的に流通している松茸は、傘が閉じている、いわゆるツボミの状態ですが、あれは形がよくて高級感があるために高値がつけられて、ありがたがられているわけですが、本当に美味しくて香りが高いのは、傘が開いた状態です。

この、傘が開いた状態の松茸を「君が笑えば」と表現しているわけです。マサムネさんは、感性が豊かですね。

そして、傘が開いた、香りが素晴らしい松茸を食することができれば、それこそ、小さなことなんか気にならなくなるぐらい、大きな幸せに包まれることでしょう。



かわるがわるのぞいた穴から

何を見てたかなぁ?

一人きりじゃ叶えられない

夢もあったけれど

この部分は、秋の写真を眺めて思い出に浸っている部分なのかなと。写真とは時空の穴で、穴の向こう側に広がる写真の中の世界には、たくさんの思い出が広がっているわけです。秋の写真だったら、それこそ松茸ご飯という名のブナシメジご飯を食べさせられている場面もあるでしょうし、サツマイモや栗、梨、柿など、旬の野菜、果物に舌つづみを打っている場面もあったでしょう。楓をバックに、写真を撮ったりしたでしょう。

「一人きりじゃ叶えられない夢」とは、松茸を腹いっぱい沢山食べるという、贅沢な夢のことを指しているのかなと。マサムネさん一人では音楽で有名になれず、松茸を大量に食べるという贅沢はできなかったでしょう。スピッツのメンバーがいたからこそ、ロビンソンで大ブレイクし、CDが沢山売れて、その印税で松茸を大量に買って、ニッコリ。



さよなら 君の声を 抱いて歩いていく

ああ 僕のままで どこまで届くだろう

でも、松茸のシーズンというのは、秋限定です。秋が終れば、また次の秋まで、美味しい松茸は食べられません。あの大きな松茸を二つに裂いて、炭火でジュージュー焼いた時の音。松茸の傘の部分に沁み出た松茸エキスが、プツプツ弾けている音。これらの松茸の「声」を、思い出として胸に抱いて、これからのシーズンを歩いていかなければいけないのです。辛いですね。

「ああ僕のままで どこまで届くだろう」とは、先ほどもちょっと述べましたが、「また次の秋が来るまで待ちきれないなぁ。僕の気持ちがそこまで続くかなぁ」という、切ない気持ちを表しています。とさっきまで思っていましたが、あるいは「僕のママで」という意味だったのかもしれない、と、カーチャンのくだりを書いている時、ふと気が付きました。「僕のママが作ってくれた菌床栽培の安売りブナシメジご飯の実力は、この天然自然の産物である高級松茸ご飯に、どれだけ届くだろう?」というくだりなのかもしれないなと。

どちらにせよ、秋に対する強烈な慕情を表したものであることには、間違いなさそうです。



探していたのさ 君と会う日まで

今じゃ懐かしい言葉

ガラスの向こうには水玉の雲が

散らかっていた あの日まで

ここからは、ちょっと歴史ネタになります。松茸といえば、楓が発表された1990年前代は、かなり安かったのです。というのも、北朝鮮との貿易がさかんに行われており、豪華客船万景峰号が、北朝鮮産の松茸を大量に積んで日本に持ち込んでいたからです。国産の松茸は、普通サイズで1本10,000円なのに対して、北朝鮮産は1本300~500円ぐらいです。これはすごいですね。松茸は他の野菜とは違い、天然のものをとってくるしかなかったので、怪しい農薬や肥料の心配もありません。むしろ国産品よりも北朝鮮のほうが自然に近い森林が多かったので、松茸の味も優れている、なんて話もありました。もっとも、松茸の重さで取引額が決まるため、総重量を水増しするために、松茸の軸に錆びた釘を入れる、なんてこともあったりしましたが……。

とにかく、「楓」が発表された当時は、北朝鮮産の松茸が市場に大量に溢れていて、活発に取引されていた時代だったのです。一方で、割高な国産の松茸は隅に追いやられて、もはや高級デパートの飾りぐらいにしか、なっていなかったんです。

そんな環境において、「国産の、丹波の松茸だよ~!珍しいよ~!」だなんて、威勢のいい声が、通りがかった八百屋さんから聞こえてきたら、どうでしょう? 「探していたのさ 君と会う日まで 今じゃ懐かしい言葉」と、なりますよね。

「ガラスの~日まで」は、これは秋の空を表現しています。うろこ雲のことですね。ちょうどこんな日には、練炭を持ち出して、炭火で松茸を焼いて食べたいですよね。うーん、いいですねぇ~。



風が吹いて飛ばされそうな

軽いタマシイで

他人と同じような幸せを

信じていたのに

タマシイ、って、どうしてカタカナなのでしょう? こういう場合って、マサムネさんの場合、何か詞を読み解くヒントが隠されていたりします。


タマシイ、マツタケ


どこか似ていませんか?

4文字のうち、タとマは、共通しています。さらにシとツは、文字にするとよく似ています。残りのイとケですが、ケの部分にイが入っています。これはつまり、タマシイとは、マツタケのことを暗示していたのではないかと。

秋を代表する食材として、マツタケを用意してみましたが、まさにここに、マツタケが隠されていたわけです。「楓」=マツタケの曲説は、かなり濃厚になってきましたね。

ちなみに、市販の松茸は水分が抜けていて、結構軽いです。風が吹けば、普通に飛びます。

「他人と同じような幸せを信じていたのに」の部分は、上記で述べた松茸事情から、幸せな松茸ライフに暗雲が立ち込めていることを示唆しています。

今でこそ超高級品である国産松茸ですが、「楓」が発表された時代では、栗や柿といったお馴染みの秋の風物詩と同じような扱いで、年に一度は食卓に出るものでした。もっとも、私が喩えで作ったマサムネさんのカーチャンのエピソードのように、松茸ご飯と偽って、ブナシメジご飯を出していた家庭も少なくなかったですけれども。

とにかく、そんな、「一年に一回は、松茸を食べられる幸せ」を、信じてきた、というわけですが、昨今の事情から察すると、この幸せがいつまで続くかわからない、という、憂いが表れています。事実、この時のマサムネさんの憂いは、令和の現代では、現実のものとなりました。庶民は松茸なぞ口にすることすらできなくなりました。悲しいですね。



これから傷ついたり 誰か傷つけても

ああ 僕のままで どこまで届くだろう

秋が終る表現です。これから次の秋までの一年、傷ついたり、誰かを傷つけたりして、へこむこともあるだろうけれど、次の松茸が食べられるまで、頑張ってみよう、と自分を奮起させている場面なのではないのでしょうか。



瞬きするほど長い季節が来て

呼び合う名前がこだまし始める

聴こえる?

ここは、待ち望んだ秋が来た場面となっております。体感ですと、夏と冬が異常に長く、秋は本当に一瞬です。暦のうえでは3か月もあるんですけど、秋らしく過ごせるのは、松茸を楽しむことができるのは、瞬きするほどの一瞬だというわけです。

そして、その一瞬のシーズン中、市場では「松茸はいかがですか~~!」という、八百屋さんの声がこだまします。大の松茸ファンであるマサムネさんは、この声に惹かれている、というわけです。「あの声が聴こえるかい? 松茸のシーズンがついに来たんだよ!」という興奮が、この一文に込められていると思います。



という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?

いやぁ、楓ファンの方に、さすがに怒られるかな、とも思うんですけど、どうでしょう? 楓はけっこう思い入れのある方も多いですし、この曲に惹かれて、カバーなどをされているアーティストの方も多いです。

そんな魅力ある曲が、松茸の曲だった、だなんて解釈をしている八百屋さんがいたら、どうでしょう? 激怒されちゃうんじゃないでしょうか。

なので、こういう解釈は、なるべく目立たない場所で、例えばこういう八百屋さんのブログなどで、コソコソやるのが正解なのかなと。私もスピッツのファンにあう時は、「楓って、別れの曲だよね、切ないね~」と、なにくわぬ顔で言っていると思います。

でも、いざ松茸を売ったり買ったりする場面では、こっそりと「楓」を口ずさんでいるかもしれません。



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