
こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「月に帰る」について解釈していきたいと思います。
この曲は、この八百屋さん的には、竹取物語に出てくるかぐや姫について描いた曲なんじゃないかなと思っています。現代によみがえったかぐや姫と、同じく現代によみがえった、かつてのかぐや姫の恋人であったマサムネさん。この二人が「めぐり逢い」、そして「さよなら」するまでの時間を描いた曲なんじゃないかなと。
竹取物語の作者は誰なのか、今のところわかっていないそうです。が、平安時代の人で、かつ文字を使うことのできた知識人であることはわかっています。福岡の太宰府に流れた菅原道真もまた、作者候補の一人です。菅原道真は政治家でありながら、詩人でもありました。今でも学問の神様と崇められるほど、たぐいまれなる才能がありました。
マサムネさんもまた、たぐいまれなる才能を持つ、福岡出身の詩人です。もしかしたら、菅原道真の生まれ変わりだと、この時自負していたのかもしれません。
そして竹取物語の主人公であるかぐや姫は、実在こそしていないにしても、モデルとなった人はいたでしょう。菅原道真は、美しいこのモデルをかぐや姫とし、悲しい別れ話を描いたのです。それをなぞるように現代でもまた、マサムネさんが美しい「かぐや姫」に「再会」し、作った曲が、この曲なんじゃないかなと。
当時のマサムネさんが、美しい彼女を眺めていた時「俺たち、昔どこかで出会っていたかもしれないなぁ」なんて運命的なものを感じて、彼女と自分を、かぐや姫と菅原道真に投影した。そんな詞なんじゃないかなと思っています。
詞を順番に眺めていきましょう。
真赤な月が呼ぶ 僕が生まれたところさ
どこだろう
黄色い月が呼ぶ 君が生まれたところさ
湿った木箱の中で
めぐり逢えたみたいだね
今日の日 愉快に過ぎていく
もうさよならだよ 君のことは忘れない
「真赤な月」と「黄色い月」って、何でしょう? どちらも出身地を表しているようです。
この詞が、かぐや姫との出会いを表している詞なのだとすると、「君が生まれた黄色い月」とは、そのままの意味になります。私たちが夜に眺めている、月のことです。一方で、「僕が生まれた赤い月」とは、ニクヅキ、つまり肉体のことを指しているのだと思います。つまり僕は、人間の肉体から生まれた、生身の人間だということです。
生身の人間である僕と、物語上の存在であるかぐや姫。それを「真赤な月」と「黄色い月」という対比の形をとることで、うまく描こうとしていたんじゃないかなと。
なお「黄色い月」のほうが目に見えてわかるはずなのに「どこだろう」と疑問を呈している部分にも、かぐや姫のことを言いたいんじゃないかなということが伝わってきます。実際の月には、天界はなく、かぐや姫が住んでいる宮殿などないからです。
「湿った木箱の中」は、かぐや姫が入っていた青竹の中を連想させます。平安時代の昔は、まさに青竹の中でしたけれども、現代によみがえったかぐや姫とマサムネさんは、いったいどこでめぐり逢えたのでしょう。やはり青竹の中にいるのを発見したのかもしれませんし、全く別の何かなのかもしれません。
「湿る」には、水気を含んでいるという意味のほかに、気が滅入るとか、気分が沈むとか、そういう意味もあります。また「木箱」は粗末な作りの建物という見方もできます。同じ木造の建物だとしても、例えば荘厳なお寺とか、皇居とかは、さすがに木箱とは言い表さないでしょう。おなじ木造でも、壁がペラペラのベニヤ板を使っているのがわかる建物とか、そういうチャチな建物だったら、木箱と言い表してもいいかもしれません。だって文字通り、木箱のようなものなのですから。
つまり、「湿った木箱の中」とは、楽しくない場所、人間の生気が感じられない場所という意味にとらえることができそうです。現代に当てはめると、風俗店の待合室とかどうでしょう。
巡り逢って、愉快な時間を過ごして、「もうさよならだよ」とすんなり別れてしまえるのは、そういう条件だったからでしょう。風俗店に立ち入って、しけた待合室に座らされたマサムネさん。そんな空気の悪い吹き溜まりに姿を現した風俗嬢は、この世のものとは思えないぐらい、絵にも描けないような美しい人でした。マサムネさんはその眩しいばかりの美しさに、しばらく言葉を失いました。「かぐや姫だ……」と思いました。それから自分と彼女を、菅原道真公とかぐや姫に投影して、このひとときの恋を雅に飾ろうとしてみせた、というのが、この詞ができたきっかけなんじゃないかなと。
真赤な月が呼ぶ 誰も知らない遠くで
光っている
黄色い月が呼ぶ 誰も知らない遠くで
ほどけた 裸の糸で
めぐり逢えたみたいだね
今日の日 綺麗に過ぎていく
もうさよならだよ 君のことは忘れない
この詞が語られている場所が風俗店だとしたら、詞の最初に出身を明らかにしたのは叙述的にすごいと思います。なぜならこの場所は、別々の出身の男女がまじわい、出身をする行為を行うところなのですから。
「誰も知らない遠くで」もまた、風俗店を連想させます。おおっぴらになっていない、社会から隠されるべき影の部分なのです。この影の部分で、真赤な月の出身者と、黄色い月の出身者がめぐり逢うのです。
裸とは、衣服をまとわない状態のことを指します。衣服は糸で出来ています。なので「裸の糸」というのは、だいぶ矛盾した言葉ですね。二人は裸になった、という意味だと思いますが、普通に脱ぐのではなく、衣服を紡いでいた糸がほどけていって、裸が現れるみたいな、幻想的な光景が思い浮かびます。
こうした、現実を生きる「真赤な月」のマサムネさんと、幻想を生きる「黄色い月」のかぐや姫との対比が、「湿った木箱」の場面における、風俗店という暗く湿った場所での煌びやかな出会い、「裸の糸」における衣服の着脱など、矛盾する事柄を連想することができる仕組みになっていると感じます。こうした仕組みが、かぐや姫との邂逅を綺麗に見せてくれているのだと思います。
他人から見れば、ただ風俗店に行ったら綺麗なオネエチャンでラッキー、みたいな話ですが、それをアーティストが描いたら、ここまで綺麗に描ける、という、マサムネさんの才能をこれでもかと見せつけてくる詞になっていると思います。
いやいや、風俗店のほうが虚になり、実といえば、かぐや姫のほうにあるのです。風俗店の設定は物語を彩るうえでの性質のひとつにすぎません。私は八百屋さんですが、だからといって野菜を売るだけが人生ではありません。このかぐや姫もまた、風俗嬢としてマサムネさんの相手を一瞬行ったかもしれませんが、過去や未来にもっと多くの人生があったことでしょう。その部分も、この詞は描こうとしているのです。
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