スピッツ「初夏の日」とは、君の命日だった説。~スピッツ歌詞解釈~

更新日:2021年12月26日



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツの名曲「初夏の日」について解読していきたいと思います。


「初夏の日」は、とてもいい曲ですよね。遠い夏の暑い日を懐かしむような、そんな曲だと思います。

でも、この歌詞の意味については、よくわからない、という感想がほとんどなのではないのでしょうか。

私も、よく意味を考えないで、「あ~初夏の日すんごいいいね~」とか言ってた人間です笑

まあ正直ね、スピッツの曲の意味なんて、深く考えなくても全然問題ないんですよ。スピッツの曲は、スピッツが作ったというだけで、不思議な魅力があるからです。とても心にしみてくる、心地よさがあります。あれこれ考えて「これはこういう曲なのだ」と定義してしまうほうが、野暮ってものかもしれません。


でも、野暮と知りながらも探求してしまうのが、スピッツの曲の奥深さかもしれません。

スピッツの曲は私に対して、「ほれほれ、探求したいだろ? やってみるがいい」と誘ってくるわけです。そして、一度探り出したら、その奥深さに本当に魅了されます。やめられなくなっちゃうんです。いや~すごいですね。


と、前置きはこのぐらいにしまして。この初夏の日ですが、これは弔いの曲だと思います。

ざっくり言ってしまうと、知人(恋人?)の命日である初夏の日に、僕がひとりで京都に旅行にきて、お墓の前で手を合わせている。という曲なのだと思います。



いつか冴えわたる初夏の日

君と二人京都へ鼻うたをからませて

遠くではしゃぐ子供の声

朱色の合言葉が首筋をくすぐる

この曲、「君と二人京都へ」と最初に歌いだしておきながら、君の存在が終始ぼやけているところが、最初に気になった部分なんです。「もしかしたら、君って幻の存在なんじゃないか……」と。でも、冒頭では、ちゃんと述べています。僕の中では、確かに「君と二人」で「京都へ」来た。そんな確信があります。

これはどういうことかというと、ちゃんと君は、京都にいるということです。京都の冷たい土の下で眠っているというわけです。

こう考えると、僕はなぜ京都に来たのかも理解できます。旅行は旅行でも、観光ではありません。君の弔いに来ているわけです。とすると、初夏の日というのは、命日ということになりませんか。

命日には、弔いに僕が必ずお墓に参りにくるので、それに合わせて、君も天国から戻ってくることを、僕は期待しているのかもしれません。なので、「君と二人京都へ」向かっているという言い方になっているのかもしれませんね。

もし僕がいるのが観光地なら、はしゃぐ子供の声が、近くで聞こえてきたことでしょう。京都は修学旅行の定番ですし、有名な寺などは子供たちでごった返していることでしょう。でも、墓地ならどうでしょう。あたりはシーンと静かです。遠くではしゃいでいる子供の声ばかりが、聞こえているという状況なのではないのでしょうか。

「朱色の合言葉」という部分がちょっとわからなかったんですけど、君の墓をもし僕が建てたとするなら、君の墓には、建造者である僕の名前が朱色で書かれているはずです。墓に名前を彫る場合、それが亡くなられた方の場合は白で書きますが、建てた人に関しては、朱色で書かれます。君のお墓に刻まれた自分の名前が、まるで一緒にいるような感じがして、くすぐったくなっているのでしょうか。

あるいは、お墓を建てたのが君本人だった場合、君の名前は本名で赤色で書かれています。そして白色で戒名が書かれます。すでに君は亡くなっているので、名前は生前のものではなく、戒名になっています。朱色で書かれた名前の人は、この世にも、死後の世界にも存在しなくなっているはずなのです。でも、だからこそ、朱色の名前は、生きている僕と、死んだ戒名の君とを、結びつける合言葉として機能しているのです。



そんな夢を見てるだけさ 昨日も今日も明日も

時が流れるのは しょうがないな

でも君がくれた力 心にふりかけて

ぬるま湯の外まで 泳ぎつづける

「そんな夢」の、そんな、とは、どの部分を指しているのか、を考えた時、まだまだ僕の中では、君の存在が大きなものであることに気が付きます。そんな、とは、この場合「君と二人で京都にきた」の部分を指しているのでしょう。「命日に、僕が君のお墓に来たよ。君も京都のこのお墓の前にいるはずだよね」と、そんな夢をみているわけです。昨日も今日も明日も。

でも、悲しいとか、寂しいとか、そういう感情はすでに僕の中で消化してしまっています。君の何回目の命日になるのかはわかりませんが、かなりの月日が流れた感じがします。しょうがないな、という気分になるぐらいは。

でも、いいですね。最後の部分。僕は、君から力を貰っています。それを、弱くなりそうな心に振りかけることで、自分を励まして、君といた思い出の時間の外へと、抜け出そうとしているわけです。「君のことを忘れない。僕も君の思い出を胸に、前に歩き出すよ」と、ありていに言えば、そういうことを言いたいのだと思います。いやぁ自分で言っててなんですけど、「君がくれた力 心にふりかけて ぬるま湯の外まで泳ぎつづける」の部分を、「前に歩き出すよ」と訳するのって、陳腐すぎますよね。このあたり、詞の天才マサムネさんと、タダの八百屋さんの違いが露骨に出すぎていて、恥ずかしいです笑



汗がここちよい初夏の日

白い湖畔のコテージへつぶつぶを踏みしめて

黄昏れて ベランダにやってくる

風に頬なでられる 甘い匂いがする

「白い湖畔のコテージ」は、琵琶湖沿いにある白いコテージなんじゃないかなと思ってちょっと調べたんですけど、まあまああるんですよね。たぶん堅田とか比叡山坂本とか、湖西線沿いにあるコテージだと思うんですけど、どうなんでしょう。京都駅から直通でいけますし。

あと地味に、暗くなってきた時のことを「黄昏れて」と表現したのも、「この曲は死に関する曲なんですよ」と暗に示したものなんじゃないかなと思ったんです。黄昏は、暗い時刻を意味するとともに、人生の終わりを意味する言葉でもあります。



そんな夢をみてるだけさ 止まって感じた地球も

気がつけば木曜日 同じような

でも君がいるってことで 自分の位置もわかる

光に近づこうと 泳ぎつづける

ここも、とても味わい深いところです。君が亡くなって以来、僕の時が止まったかのように思っていたけれど、そんなこともなく、変わらず時が流れている。そして、それを僕自身が受け止めることができている、という部分です。君を失った悲しみや痛みは、すでに過去のものになっている、というわけです。

年々歳をとっていく僕が、歳をとらない存在になった君をみつめることで、「ああ、僕は君が亡くなってから、いろんなものを積み重ねてしまったな……」と自分の位置をしみじみ確認することができます。それは決して後ろ向きなものではなく、ちゃんと前を向いて、光に近づくよう、僕は泳ぎ続けているわけです。



嫌われちゃいそうなやり方で 近くにある幸せじゃなく

ついについに手に入れる レアなときめきを

「嫌われちゃうそうなやり方で手に入れる近くの幸せ」っていうのは、君が嫌うであろうやり方でしょう。たぶん、僕は、君が亡くなった直後、後追い自殺をしようと考えていました。そしてそれを最近まで、ずっと考えていたのです。

「君がいないこの世には、なんの未練もない。君のいる死後の世界にいきたい」と、ずっと考えていたのです。

でも、僕は、それを選ばなかった。

では、かわりに何を選んだのでしょう?

レアなときめき、って何でしょう?

この部分はあまり自信がない部分です。あえて回答するとするなら、君とこうして命日に京都へ毎年お墓参りすることで、時間がとまった君と、時間が過ぎていく僕との心の交流をする時間のことを指すのではないのでしょうか。

それが、僕にとって楽しい時間。鼻うたをからませるような、そんな心ときめく時間になった、ということなのではないのでしょうか。

僕にとって、この時間が楽しいと思うようになるまで、とても長い苦痛があったことだと思います。でも、それをようやく乗り越えて、僕と君の時間を、見つめなおすことができるようになったのです。



「初夏の日」に込められたストーリーを、こう解釈してみましたが、いかがでしょうか?

ここも陳腐な表現になってしまい、まことに申し訳ございませんが、泣ける曲だと思います。泣ける曲という以外に、愚鈍な私には表現のしようがありません。本当に綺麗で、いい曲だと思います。

夏の懐かしさとともに、しんみりしてみるのも、いいのではないのでしょうか。





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