
こんにちは。八百屋テクテクです。
今回はスピッツ「ヘチマの花」について解釈していきたいと思います。
私は八百屋さんなので、青果物や花卉などがタイトルの曲になりますと、どうも野菜方面のお話として解釈しがちです。「うめぼし」は、「うめぼしが食べたい」という解釈でしたし、「ラズベリー」は、ラズベリー農家さんのお話として解釈しています。これはもう職業病みたいなもんですね。ハハハ。
というわけで、今回の「ヘチマの花」もまた、農業関係の話として解釈していくことになりますが、よろしいでしょうか?
正直、スピッツが好きな人で、農業関係も好きな人っていうのは、けっこう限られてくると思います。なのでこのブログの内容にマッチするような方は、マレなんじゃないかなと。私は、いったい誰向けに、このブログを書こうと思っているのでしょう? 需要がなくて、全然読まれないかもしれないのに、そんなのに一生懸命になって、どうしようというのでしょう?
でもでも、この詞が本当に、農業関係の話として仕上げられた可能性も、ゼロではないではありませんか。もしマサムネさんの目に留まって、「うむ。この俺の真意を見抜いたのは、この八百屋さんが初めてだ!」ということに、なるかもしれないじゃないですか。そうなったらすごいですよね!
そういう可能性もあるので、今回もクソ真面目に、農業関係の話として、全力で、この詞を解釈していこうと思います。
二人の夢 ヘチマの花 見つめるだけで
悲しいことなど忘れそうになる
「悲しいこと」とはいったいなんでしょう? ヘチマを栽培していることと関連付けるなら、まさしく現代農業は売り上げに直結するような作物ばかりを栽培していて、ヘチマ栽培のような遊び心に割り振る余裕がなくなっているということだと思います。
たとえば昔は、いろんな種類のブドウがありました。デラウェア、巨峰、瀬戸ジャイアント、桃太郎ぶどう、ピオーネ、スチューベン、ゴルビー、マスカット・ベリーA……しかしながら、近年ではほとんど伐採され、シャインマスカットの植え替えが進んでいます。シャインマスカットが海外で人気なので、輸出用に栽培されているんです。
昔のブドウは主に国内消費用だったんですけど、シャインマスカットは6~7割が海外に行きます。海外のほうが高く売れるからです。一方で国内のブドウは数が少なくなり、また値段も高くなってしまいました。昔はブドウといえば巨峰で、1房500円程度だったので普通に楽しむことができましたが、今はシャインマスカット2000円が我が物顔で並んでいます。超高いシャインマスカットが売り場に並んでいるのを、指をくわえてみているだけになりました。もはやお手軽に楽しめるフルーツではなくなってしまったのです。
農家さんはあくまでも利益追求のための事業者なので、より売れるものを栽培するのは当然のことですが、そればかりになってしまった結果、普通の人の手に野菜、果物が渡らなくなるのは、農業政策の失敗といえるでしょう。このまま高く売れるものだけを栽培するようになれば、この流れはどんどん加速していきます。コートジボワールのカカオプランテーションで働く従業員たちがチョコレートを口にしたことがないのと同じように、日本の農家さんのほとんどが中国の富裕層に向けた野菜、果物をせっせと作る一方で、日本国民は日本産の野菜や果物を口にすることができない、という状況になるでしょう。くり返しになりますが、農家さんは事業者なので、こうなったとしても農家さんの責任ではありません。農業政策の問題なのです。
このような問題を抱える日本の現代農業において、ヘチマの栽培というのは、ひとつの夢になりえます。
まずヘチマは、熱に強いです。2024年の夏は酷暑で、40度に迫る高温が連日続きました。そのおかげで、日本のどの産地も農作物が枯れ、または植え付けができなかったのです。このため野菜、果物の価格が大高騰しました。例年高温になってきているので、この傾向はしばらく続く見込みです。
そんな中注目されているのが、高温に強い植物です。ヘチマ自体も沖縄ではナーベラーという野菜として食されていますが、ヘチマとして食するだけでなく、グリーンカーテンとして活用もされています。
また現在の農作物というのは、品種改良によりえぐみが取れて美味しくなりましたが、同時に病気や気温に弱いという欠点があります。病気や気温に強いのは、もともと自然の中で生き抜いた野生種です。ヘチマは野生種に近いので、今後の病気や気温に強い苗づくりにおいて、重宝される存在になるかもしれません。
上記のような、現代農業における問題点を鑑みると、ヘチマの花を眺めているだけで、悲しいことなど忘れそうになるではありませんか!? どうですか? 忘れそうになりましたか? 私はこれがスピッツの歌詞解釈だということを忘れそうになりました。
恥じらうようにただずむ花 咲かせる日まで
さよなら言わない 何があっても
今はヘチマの花は、利益追求する農家さんにとっては見向きもされない存在です。「ヘチマなんか植えるなら、キュウリ植えるわ」ってなもんです。なのでヘチマの花は、まわりにキュウリがいたとしたら「へっへっへ、えらいすんまへんなぁ」という顔をしているに違いありません。
でも、現代農業を批判的にみている人にとっては、ヘチマの花こそ希望なのです。「ヘチマの行く末を見守るまで、さよならはいわないよ」と、ヘチマに願いを込めています。
さびしい涙 目に映るのは やがてあたたかな愛の花
深くミルク色に煙る 街を裸足で歩いている
いつの時も二人で
「深くミルク色に煙る 街を裸足で歩いている」は、酪農の問題点を指摘しています。今は飼料高騰により、酪農家がピンチなのです。倒産、廃業件数が増えてきているということです。事業がとん挫したことで、裸足で生活しなければいけないということを表しているのではないのでしょうか。
これを解決するのは、やはり農業政策しかありません。そして、農業政策においてキーワードになるのが、ヘチマに代表される、まったく新しい農産物、全く新しい農業の視点なのです。酪農は、飼料のほとんどを輸入に頼っていました。円安のおかげで大打撃をこうむっています。にもかかわらず、酪農家に対する政策はこれといって打ち出されていません。とりあえず円安が落ち着くまで待つつもりでいるようですが、将来を見据えた政策とはいえないですね。やはり国内で飼料を循環できるような、大規模で長期的な政策の変換が求められているでしょう。
そう……つまり、ヘチマの花に代表される新しい視点の農業政策こそが、農業酪農事業者にとって、あたたかな愛の花である可能性を秘めているというわけです。
二人の夢 ヘチマの花 かなえて欲しい
飛べない鳥だと 気づかされても
「飛べない鳥」とは、養鶏のことを指しているのかもしれません。養鶏は畜産業のなかでもサイクルが早く、もっとも安定した収入が見込める品目です。
新しい農業政策の突破口は、農業ではなく、実は養鶏にあるかもしれません。飼料から飼育、出荷までが一事業者で完結、整備されています。養鶏は、もっとも完成された畜産形態なのです。「飛べない鳥」に、突破口を「気づかされ」るのかもしれません。
やましい呟きの最後にも やがてあたたかな愛の花
深くミルク色に煙る 街を裸足であるいている
いつの時も二人で
「やましい」とは、なんとなく気まずい、後ろめたい気持ちを表しています。まさに私は今、この詞と現代農業問題を無理やり組み合わせて、スピッツをダシにして、持論を展開してしまいました。今現在は2025年ですが、マサムネさんはこの詞を作った1995年当時から、私がこの詞を農業問題につなげることを想定して、さらにそれに対して後ろめたい思いを抱えることを想定して、この詞を仕上げていたのかもしれません。天才ですね。
といった感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
なんか農家のおっさんの酔っ払いみたいな話になってしまいました。自分で見返しても、内容はあまりないように思います。こんな話を同業者にしたら、ぶっとばされます。スピッツ好きな人にしたら、もっとぶっとばされるかもしれません。
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