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スピッツ「テレビ」は、マスコミ批判の曲だった説。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回はスピッツ「テレビ」について解釈していきたいと思います。

この曲は、「テレビ」を批判した曲なんじゃないかなと思います。ただ、この頃はテレビの力はものすごく大きくて、スピッツもまた駆け出しの頃だったので、テレビの力を大いに利用していかなくちゃいけなかったので、おいそれとテレビ批判ができなかったのだと思います。なので、わかりにくーい詞にしなくちゃいけなかったのかなと。「あっ、これはテレビ批判だ!」って気づかれてしまったら、干されちゃいますからね。当時のマサムネさんが、頑張ってわかりにくくしてくださったので、今でも私たちはスピッツを要所要所でテレビで見ることができますし、睨まれてもいないと思います。みごと懸命な判断でしたね。

「テレビ」ってタイトルではありますけれども、誰も、「テレビ」のことについて語っている内容だ、とは、想像もしていないんじゃないでしょうか。カモフラージュがうまくいっている証拠だと思います。さすがマサムネさん、天才ですね。

一方で、あれだけ繊細な思考の持ち主ですし、ロック魂の持ち主ですから、この曲を作った頃の若いマサムネさんは、世の中を批判したい気持ちでいっぱいだったでしょう。「こんな世の中間違っている! 王様の耳はロバの耳なのに、それを指摘できないテレビはおかしい!」という曲を作りたくて仕方がなかったと思います。

テレビの批判をしたいけど、テレビの批判だと悟られたくない。そんな気持ちを表現したのが、この詞なのだと思うのです。

どういうことなのか。詞を順番に眺めていきましょう。




君のベロの上に寝そべって

世界で最後のテレビを見てた

いつもの調子だ わかってるよ

パンは嫌いだった

ベロは、言葉を発する場所です。「君のベロの上に寝そべる」とは、君の口から発せられた言葉を、黙ってきいている、というスタンスだと思います。

「世界で最後のテレビ」ですが、ここは今よりだいぶ未来の話なのだと思います。世界は崩壊寸前になっており、放送できるテレビも1局のみにまで減ってしまっておりました。文字通り、「世界で最後のテレビ」なのだと思います。

その最後のテレビで、何が放送されているのかというと、「いつもの調子だ」とのことです。たぶん「ファミマの新作スイーツ!ん~~濃厚~~!」みたいなことを、放送しているのだと思います。世界の崩壊も近いというのに、この期に及んで、スポンサーの意向どおりに、起業案件を放送するしかない、というのが、テレビという仕組みなのです。

この放送を、マサムネさんと彼女は、呑気に眺めています。「新作スイーツだって、食べてみた~い」とか彼女が言うのを、マサムネさんは黙ってきいています。

「いつもの調子だ わかってるよ」とは、マサムネさんが、テレビに向かって言ったことだと思います。マスコミは真実を伝えてくれないモノだということを知っているし、偏向報道するモノだということも知っています。なので、いつもの調子だからといって、今更怒る気にもなれません。「わかってるよ」という、諦めの境地にいます。

しかしながら、マスコミの報道姿勢については諦めの境地にはいますが、「パンは嫌いだった」と、個人的な主張までは諦めたくはないようです。パンは伝来品です。たぶん、この時代の世界崩壊は、ヨーロッパかアメリカの動きが発端なのだと思います。これまでも、戦争の引き金を引いてきたのはヨーロッパがアメリカですし、これから先もずっと、世界中の紛争に関わっていくことになるでしょう。そうやって世界が崩壊するまで、戦争をし続けるのです。荒廃した世界を眺めたマサムネさんは、「こうなったのは、あいつらのせいだ」と、憎しみを抱くに違いありません。パンが実際嫌いなのではなく、パンを作り出した奴らが嫌いなのです。



さびたアンテナによじ昇って

市松模様の小旗を振った

不思議な名前も似合ってるね

失くさないでずっと

「さびたアンテナ」は、そのままの意味です。サビているけれど、交換も修理もできないほど、社会体制が悪くなってきています。

そこで何をしているかというと、「市松模様の小旗を振った」とのことです。これは、チェッカーフラッグのことを指しているようです。カーレースとかで、審判が違反行為を見つけた際に降っている旗ですね。これもまた、公共の電波を使ったテレビ報道に対する批判の表現だと思います。「世界が大変なときに、ファミマのスイーツよりも伝えなくちゃいけないことって、あるだろう!?」っていう思いで、旗を振っているのだと思います。

「不思議な名前」とは、「マスコミ」のことだと思います。マスコミとは、マス・コミュニケーションのことを指します。多くの人(マス)が、情報交換(コミュニケーション)を図っている、というのが言葉の意味ですが、実態は、政府、大企業、資産家に都合のいい情報を、大衆に向かって一方的に垂れ流す装置になっています。一般人の窃盗や交通違反についてはしきりに報道するけれど、政府の汚職、大企業の不正などについては、スポンサーの意向で報道するかどうかを決めています。結果、国民は、数十円の値上げをした個人農家さんや中小企業の商品を口汚く叩いて不買運動し、数万円、数十万円の値上げを行い、その利益を便宜を図ってくれた政治家や利害関係のある者同士でこっそり分け合っている大企業の商品を、国民は喜んで購買するようになるのです。こういう状況を放置しておいて、とぼけた顔で「公平公正」を主張する「マス・コミュニケーション」は、あまりにも名前と真逆な、摩訶不思議な存在といえるでしょう。

「失くさないでずっと」は、「本来の意味をもう一度考えて、まともな報道してくれよ」という意味なのか、「そのまま二枚舌を続けて、信頼を失っていくがいいさ」という意味で使っているのか、はたしてどちらなのでしょう。似合ってるね、という皮肉から判断すると、後者に思えます。

ここまでくると、マスコミは、もはや「公平公正」の看板を失くさないように意固地になればなるほど、国民の信頼は失っていくという、末期的な状態になってしまっているのです。



マントの怪人叫ぶ夜 耳ふさいでたら

春の風によじれた 君と僕と君と

「マントの怪人叫ぶ夜」は、断末魔の叫びだと思います。マスコミと癒着し、私腹を肥やしていた大企業、政治家、官僚たちという「マントの怪人」が、一夜にしてその立場を失った夜だと思います。たぶんクーデターとか、革命とか、あるいは他国から軍事侵攻されて占領されたとか、そういう夜だと思います。自分たちがやってきた不正が白日の下に晒されて、「ギャーッ」ってなっているところだと思います。

マサムネさんとその彼女は、重たい税金に苦しみながらも平和に暮らしていた一般人です。マスコミの報道規制のために何も聞かされていなかったのですが、ある日ドンパンドンパンと小競り合いが始まって、怖いね~って言いながら耳をふさいでいたら、次の朝には「春の風」がきました。

「春の風」は、「プラハの春」などに使われる意味での、春のことだと思います。この国に巣くう悪の集団が、戦争により一掃された状態のことを指します。権力者や資産家は摘発され、ブタ箱に入れられて財産が没収される一方で、これといった資産を持たない一般人はかえって生活が楽になる現象がたびたびあります。占領した側は、そう主張することで、占領した国の国民をなだめるのです。日本は、独立国家として運営されていたものの貧困にあえいでいた戦前と、アメリカに占領されたことで豊かになった戦後という、まさにこのことを経験しているのです。

「よじれる」とは、ねじって曲げた状態になることです。マサムネさんは「春の風」を歓迎していません。当然です。いくら悪が一層されたからといって、国体まで潰れてしまっては、お先真っ暗です。

マスコミは本来、不正をチェックする役割があるのです。それを放棄し、大企業や政治家、権力者のいいなりになってしまった結果が、こんにちの凋落なのです。マサムネさんとその彼女は、テレビのせいで、春の風という名の戦争に翻弄され、行き場を失うという結果になってしまったのです。

ちなみに、「マントの怪人叫ぶ夜」は、この詞で3回でてきます。つまり3回政変があり、3回権力者たちが殺され、3回、君と僕は路頭に迷う羽目になるのです。



去年の秋に君が描いた

油絵もどきを壁に飾った

カボチャとナスは仲良しか

それもいいや だって

「油絵もどき」は、油絵ではないようです。たぶん去年の秋の時点で、社会体制が悪くなっており、油絵の絵具が手に入らなくなっていたのだと思います。そこを君が工夫して、どうにか「油絵もどき」の絵に仕上げたのだと思います。

また、カボチャはアメリカ原産の野菜です。一方でナスは茄子とも書きます通り、日本で主に栽培されている野菜です。一富士二鷹三茄子なんて言われます通り、日本となじみの深い野菜なのです。

つまり、「カボチャとナスは仲良しか」というのは、「日本とアメリカは仲良しか」と問いかけている内容なのだと思います。

テレビは、マスコミは、このマサムネさんの問いに、なんと答えるでしょう? 「仲良しです」と答えるしかないでしょう。かつて日本に原爆を落とし、占領し、今なお表も裏も牛耳られているアメリカとは、仲良しだと、マスコミは答えないといけないのです。でないと、アメリカの意向を中心に形成されてきた日本の社会体制が、壊れてしまいますから。アメリカの意向に従い日本に寄生してきた大企業を敵に回すことになってしまいますから。

でもマサムネさんは「それもいいや」と、その答えをマスコミから聞くのを、ついに諦めてしまいます。「だって」の後にサビが続きますが、サビは上記で述べた通り、政変が起こったことを表しています。つまり「だって、政変が起こったから、その答えはもうどうでもいいや。その答えを聞いたって、どうにもならないところまで来てしまったのだからね」という言葉が、この先続くのだと思います。



小舟に乗って暗闇の外へ

忍者のように そっと近づいて

「暗闇」とは、マスコミがまともに機能しないせいで暗闇になってしまっている日本のことを表しています。その「外」に出るとは、亡命のことかなと。

「忍者のようにそっと近づいて」と、こっそり別の国に行くことを示唆しているのも、亡命っぽいです。

なお、ここで日本特有の「忍者」を当てはめているところに、悲しさを感じます。本当は日本のこと大好きなのに、国外に流れなくてはいけなくなってしまった。その無念さが現れているようです。「俺は日本を離れたけれど、決して日本の心までは捨てたわけじゃない」と。



ブリキのバケツに水をくんで

おなかの大きなママは思った

まぶたを開けてもいいのかな

かまわないさ どうだ

ここの「ママ」は、かつてマサムネさんの隣で「ファミマのスイーツ食べた~い」と、マスコミに踊らされていた彼女だと思います。その彼女がマサムネさんと結婚して、子供まで授かっていました。けれども異国の地で、アフリカの原住民みたいに、オモチャみたいなバケツを使って水汲みをしながら暮らしています。妊婦でも飲み水の確保をしなければならないほど、過酷な環境なのです。

そこで「ママは思った」そうです。何を思ったのでしょう? 「まぶたを開けてもいいのかな」とのことです。

今まで彼女のまぶたは、ずーっと閉じていました。何も見えない、何も聞こえないふりをして、ぼーっとテレビを眺めていたのです。テレビのいいなりになって、「ファミマのスイーツ食べた~い」と思っていたのです。その結果が、これです。

そろそろ、マスコミが報道することを鵜呑みにするのをやめてもいい頃です。自分の眼で状況を眺めて、自分の頭で判断して、自分の手足で行先を決める。そういうふうになっていきたい、と、彼女ははっきり瞳を開いて、マサムネさんを見つめたのだと思います。

それに対して、「かまわないさ」と言っています。それはいいことだ、と。

もしかすると、3回目の「マントの怪人叫ぶ夜」の政変には、マサムネさんと、この彼女が関わったのかもしれません。今までは耳も目もふさいで、騒動が収まるのを待っていただけでしたし、亡命までしましたけれども、今回は彼女が覚醒したので、マサムネさんもまた、生き死にをともにする覚悟ができた、とも解釈することができるなぁ、と。

3回目の「春の風」は、もしかすると、その首謀者はマサムネさんだったのかもしれません。




という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?

ずいぶん怖い話になってしまいましたが、大丈夫でしょうか。

エロい歌詞解釈になりそうなときは、エロ注意みたいな表示を行っておりますが、これはグロ注意かもしれませんね。いやグロとも、ちょっと違うような気がしますけれども、うーん、どうでしょう?

まあ、あくまでも私の解釈なので、そういう考え方もできるね、ぐらいに思ってもらえればと思います。

こう解釈したら、冒頭でも申し上げましたとおり、マスコミ批判をしつつ、その内容を誰にも悟られない、というなかなか器用な詞に仕上がっていると思いますので、いい感じではないのでしょうか。




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