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スピッツ「コスモス」に見る、マサムネさんの原点。



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、スピッツ「コスモス」について解釈していきたいと思います。

この曲はけっこう地味で、ライブでもあまり演奏されない曲なのだそうです。確かに、今となってはだいぶ古い曲になりますし、そもそもスピッツが好きな人であっても、さすがに全曲聞きこんでいる人は少ないでしょう。新しくスピッツを聴き始めた人にとっては、コスモスにまでたどり着くのは相当大変です。というわけで、「コスモス」は、時代に取り残されて、記憶の彼方に忘れ去られてしまいつつあるような感じがする曲です。

とはいえ、詞の中で語られている内容は、めちゃめちゃ重要な事柄なんじゃないかなと、この八百屋さん的には思っています。

それこそ、スピッツの詞の根幹にかかわるような、そんな出来事が語られているんじゃないかなと。

一見すると、彼女が亡くなって悲しい、という、まあまあありがちな内容ですけれども、いくつもスピッツの詞の解釈に取り組んできた私の目線でこの詞を眺めると、どうもいつもの内容と様子が異なっているように思うのです。

というのも、死別をテーマにした曲はいくつか思い浮かびますが、それはどれも「死別」そのものがテーマになっていました。一方でこの詞は、「死別」という出来事を経て、なにか重要なものを掴んだ、彼女から譲り受けた、ということがテーマになっているんじゃないかなと。つまりこの詞は「死別」の曲ではなく、「継承」の曲なのです。そして、彼女から譲り受けたものを、アーティストとして、これから描いていきますよ、という、そんな原点を描いた曲なんじゃないかなと。マサムネさんの曲のテーマは「性愛と死」だそうですが、どうして死をテーマにしているのかを、ここで探ることができるんじゃないか……そんな重要な詞になっているんじゃないかなと、思うのです。

詞を順番に眺めていきましょう。




鮮やかなさよなら 永遠のさよなら

追い求めたモチーフはどこ

幻にも会えず それでも探していた今日までの砂漠

どうしてこの詞がマサムネさんの原点だと私が考えたかという話なんですけど、「モチーフ」というフレーズが出てきたからです。

「モチーフ」とは、創作の動機となった思想あるいは題材のことを指します。モチーフとは、あくまでも裏方の事情であり、作品において表に出てくることはないのです。例えば、我が国の国歌である「君が代」は、「さざれ石の巌となりて」つまり、小さな沢山の石が終結すれば一つの強い結束を生む、ということをうたっています。これは、天皇家という歴史ある王朝を頂きに据えた、民主主義国家であることがモチーフになっています。けっして、モチーフのほうの「我等日本國人民ハ、國民議會ニ於󠄁ケル正當ニ選󠄁擧セラレタル我等ノ代表者󠄁ヲ通󠄁シテ行動シ、我等自身及󠄁我等ノ子孫ノ爲……」がそのまま歌詞になることはないのです。これが、モチーフと芸術の基本的な関係です。

でも、「コスモス」においては「追い求めたモチーフはどこ」と、モチーフそのものが亡くなってしまったことに絶望している様子が描かれています。つまり、マサムネさんは、「もう曲が作れない」と嘆いているのです。自分の作品で、ここまでの心境を吐露してしまうのは、もはやこれは曲ではなく、本当に嘆いているのだと感じます。「コスモス」の中で描かれている、自分がモチーフにしていたモノ、コト、ヒトというのは、実は本当にあった話なんじゃないかなと。

「鮮やかなさよなら 永遠のさよなら」は、彼女と死別したことを表しているのはわかります。でもこれは現在のことではなく、過去の話です。その後の詞にて、「幻にも会えず それでも探していた今日までの砂漠」とありますが、ここまでを踏まえると、「彼女を失った後、自分の心は砂漠のように乾いてしまった。彼女の幻を追いかけていたが会えず、それでも今日にいたるまで探し続けていた」ということを言いたいのだと思います。



約束の海まで ボロボロのスポーツカー

ひとりで行くクロールの午後

君の冷たい手を暖めたあの日から手に入れた浮力

「約束の海まで ボロボロのスポーツカー ひとりで行くクロールの午後」は、過去に君とふたりでおこなったことを再現しているのだと思います。スポーツカーもあの時のままと同じなので、ボロボロになっています。相当な時が流れたのを感じます。そして海で、ひとりで泳いでいます。これもまた、彼女の幻を追い求めている作業のうちの一つなのだと思います。

次の「君の冷たい手を暖めたあの日」は、ご遺体になった彼女の手を握っている表現、と思うかもしれませんが、私的には、そうではないと思っています。これは彼女が生きていた頃、「ほら、俺の手あったかいぞ」「ほんとうだ~ありがとう~」っていうやり取りあったことを表現しているんじゃないかなと。なぜならマサムネさんは、彼女のご遺体に何か特別なものを感じたのではなく、生きている彼女の手を握った時の彼女の反応に、何か特別な感情を抱いた、のだと思うからです。

次の「手に入れた浮力」ですが、これは「作品を完成させる力」のことだと思います。のちに発表するロビンソンにて「大きな力で空に浮かべたら ルララ宇宙の風にのる」と言っていますが、これと同じ力です。ロビンソンもまた「自分が作った曲が人気になる話」だと私は解釈していますが、その原点は、このコスモスにて彼女から生前受け取った「浮力」にあると思っています。

ここまでのことをまとめると、マサムネさんは生前の彼女から「浮力」を貰ったけれども、その彼女が亡くなってしまい「浮力」を失ってしまった。それで彼女の幻を追いかけて、いろいろなことをやってみるも見つからず、心が乾ききった状態で今日を迎えた、ということになります。



ささやく光 浴びて立つ 君を見た秋の日

さびしげな真昼の月と西風に

揺れて咲くコスモス 二度と帰れない

サビです。ここでの「君を見た秋の日」は、彼女の幻についに出会うことのできた日なのだと思います。さきほど「今日までの砂漠」と言っていましたが、そうです。今日を境に、砂漠ではなくなっているのです。マサムネさんの心がうるおいで満たされ、新たな緑が芽生えていくのです。ということはつまり、彼女の幻に、出会えたということではありませんか。彼女の幻は「ささやく光 浴びて立つ」状態だったそうです。幻想的ですね。

しかしながら彼女の幻の正体は、「さびしげな真昼の月と西風に 揺れて咲くコスモス」でした。彼女が生きていた頃には、二度と帰れないのです。



あの日のままの秋の空 君が生きてたなら

かすかな真昼の月と西風に

揺れて咲くコスモス 二度と帰れない

「二度と帰れない」からといって、ふたたび絶望の日々が続くのかというと、そうではありません。砂漠は今日までで終わったのです。

「君が生きてたなら」に、マサムネさんのすべての想いが詰まっています。その先の心境は詞の中では語られていませんので、私たちが想像するしかありません。でも、砂漠が終わったということは、この時の彼女の幻との邂逅にて、マサムネさんの時間がようやく動き出したのです。スピッツとしての伝説が、ここからはじまったのだと思います。




という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?

「コスモスが好き!」っていうスピッツファンは、けっこう多いように思います。私のように解釈したわけじゃないと思うのですが、なんとなくいい曲だ、と感覚で感じ取っているのだと思います。これはすごいですね。

また一方で、マサムネさんがコスモスをライブで演奏しない理由について、「いやぁ、モチーフのフを、スタッフさんが、つ、として読んじゃって、餅一つって何ですか?って聞かれたのがおかしくて、演奏中笑ってしまいそうになるから、やりません」と言っていました。

笑ってしまう、というのは事実なのだと思いますけれども、ここまで感情込めて作った曲なのに「餅一つ」と解釈されてしまったことに、自分自身脱力してしまったんじゃないかなと。いっちばん大事な部分で、肩透かしをくらってしまった。そんな感情があるんじゃないかなと。

また、これは大変個人的な曲だと思うので、その意味でも、ライブでファンに聴かせるのに向かない、と判断しているところもあるんじゃないかなと。もっと「ファンが大事だ~」という内容の曲とか、「頑張ろうぜ~」っていう内容の曲が他にいくらでもあります。ライブではそんなメッセージを伝えたいという欲求がマサムネさんにあるので、やはりライブでの演奏に適した曲を、ライブで演奏するという流れになるんじゃないかなと。

そんな感じで、コスモスはいろいろ思考できる、いい曲だと思います。コスモスファンの方は、ぜひとも、マサムネさんの原点が実はここにある! と胸を張ってみてはいかがでしょう?





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