
こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「ウィリー」について解釈していきたいと思います。
この曲は、ブログタイトルにありますとおり、マサムネさんの決意とか、覚悟とかを表現した曲なんじゃないかなと思います。アーティストとして、腹をくくってやっていく、という感じの。
アーティストになるというのは、私たち一般人が就職するのと違って、覚悟をもって挑むものです。
いや普通の就職だって、採用試験で合格と不合格があり、望みの会社に入れないことってあるんですけど、ある程度勉強して真面目に振舞ってさえいれば、それなりの会社に就職することはできるでしょう。私は現在の八百屋さんになる前は、会社員として青果小売業に携わっていました。小売業として地元の生産と消費を支えるという使命感をもって、会社から給料を貰いながら仕事に従事していたのです。もっとも、私の場合は、サービス残業の横行により労働にみあった給料も貰えず、パワハラに疲弊し、最後には会社から犯罪まがいのことを指示されて、辞めるに至りました。私が持っていた程度の覚悟では、会社が求める要求に耐えうることができなかったのです。私が持っていたのは、この程度の使命感だったのです。
アーティストになれる人というのは、その何十倍、何百倍もの覚悟を持っているのです。現在NHK大河ドラマ「光る君へ」にて、主人公の紫式部を演じた吉高由里子さんは、まだ無名の頃の18歳の時、映画オーディションにて衣服を脱ぎ捨て、監督に裸を見せたことで主演をつかみ取り、その後の女優人生をつかみ取りました。18歳の時点で、尋常ならざる覚悟をもって挑んでいたのです。
私なぞは、ちょっと犯罪をそそのかされただけで、会社と使命感を裏切ってしまうぐらいの軟弱っぷりでしたが、アーティストは、すべてを捨ててでも自分の覚悟を貫き通す粘り強さをもっているのです。粘り抜いたものだけが、その他大勢のアーティスト志望者に、勝つことができるのです。
話が長くなりましたが、この「ウィリー」もまた、マサムネさんの、アーティストとしてやっていく覚悟が綴られているような感じがします。
順番に詞を眺めていきましょう。
サルが行くサルの中を無茶してもタフなモーターで
ここは、無名時代のマサムネさんが、同じく無名なアーティストたちとふざけ合っているところを表現した詞だと思います。サルたちの集団の中で、ひとりだけ、バイクでウィリーができるサルがいて、得意げにウィリーを仲間内に向かって披露している。それを見た仲間たちが、ウェーイ!って盛り上がっている。という図だと思います。なお、「タフなモーター」は、このバイクについているモーターではなく、ウィリーを行っているサルの心臓のことだと思います。どんなに困難なワザでも、どんなに困難な路面状況でも、ウィリーを披露して場を盛り上げるぞ、という覚悟で、無茶をしている様子だと思います。
だんだん止めたい気持ちわき上がっても手に入れるまで
もう二度とここには戻らない
正直、意地を張るのは辛いのです。無理に無理を重ねれば、どこかでツケを支払わされる時がきます。しんどい出来事が連続すれば、心が疲弊してくることでしょう。でも、そういう時こそ、アーティストとしての覚悟が試されるのです。「だんだん止めたい気持ちわき上がっても手に入れるまで」自分の特技を世間にぶつけ続けなければいけません。わき目も降らずに、現実にむかって激突していかなければいけません。
「もう二度とここには戻らない」は、さきほどの、サルの中でウィリーを披露していた頃の、心地のいい空間のことです。仲間内で才能を褒め合ったり、傷をなめ合っているうちは、才能が外にひろがっていかないのです。あの心地のいい仲間たちのもとに戻るとするなら、すべてを手に入れた後です。そう自分に言い聞かせて、外に向かっていく勇気を奮い立たせています。
ウィリー孤独な放浪者いつかはウィリー届くはずさ
アーティストは、自分との戦いです。めちゃめちゃ孤独な放浪者なのです。ウィリーの芸で生きていくと決めたなら、ウィリーを粘り強く披露し続けなければいけないし、そこで観客に「あいつはウィリーが下手だ」と批判されたとしても、自分一人で耐え続けなければいけません。
そうやって無限に才能を披露し、耐えた先に、届く栄光があるのです。
雨の日も同じスタイルでカサも無く息は白いのに
電話もクルマも知らない眠れないならいっそ朝まで
大きな夜と踊り明かそう
ここは、先の項目で述べたことを補完するような詞になっています。雨の日も、寒い日も、ウィリーを同じスタイルで披露し続けています。体調が悪い日もあるでしょう。失恋した日もあったでしょう。誹謗中傷されて絶望して、何も手が付かない日だってあったでしょう。でも自分のパフォーマンスを見に来てくれる観客にとっては、何の関係もないのです。嫌なことにも悲しいことにもじっと耐えて、ウィリーを披露し続けなければいけません。
自分の心がつぶれそうな心境でも「やあ、帰りのクルマがないのかい?電話でお迎えもきてもらえない?そりゃあ悲しいね。同情するよ。それじゃあ、慰めに僕のウィリーを見て行ってくれないか。ここで朝まで、ぼくと踊り明かそうよ」と、めちゃくちゃ全力のパフォーマンスを観客にぶつけています。自分がどんなに悲しくても、観客に喜んでもらえるよう、パフォーマンスをする気でいます。
ここに、アーティストとしての、めちゃめちゃ重い覚悟が見えます。
甘く苦く それは堕落じゃなく
これまで、アーティストとしての覚悟を伝えてきましたが、何も辛く厳しいものに耐えることだけが、アーティストとしての覚悟ではありません。その先にある栄光を享受することもまた、アーティストとしての役割なのです。観衆に「すごいぞ!ウィリーすごいぞ!」とはやし立てられる日が来たとしたら、それを逃げずに堂々と受け止めることもまた、必要になってきます。
これは、我慢を重ねた人にとっては、ある意味怖いことです。ずーっと売れないアーティストだった人が「おうお前、明日からテレビ番組が決まったぞ」と言われたら、どう思うでしょう? 最初は「うまくできるんだろうか…」と緊張しながら、こわごわ収録に挑むと思うんですけど、テレビを見てくれた人、スタッフさん、全員が自分に気を使ってくれます。結果、うまくできたとしても、できなかったとしても、「良かったよ~」って褒めてくれるのです。チヤホヤしてくれるのです。
この状況は、完璧なものを披露したいと思っているアーティストにとっては怖いですね。自分が披露しているものの出来が、客観的に成功しているのかどうか、よくわからない状況になるのですから。自分にとって失敗だと思ったことでも、大衆が「すごいよかった!」って評価をくれることもあります。
こういう場合、真面目な人ほど、悩んでしまいます。大衆がどう思おうと、自分の道をいくのが正義だ、なんて思い込んで、自分を追い詰めるほうに向かってしまい、結果、大衆も自分も満足できない、という袋小路に陥ったりします。なまじ成功したことが、転落への道になってしまうのです。
その点、「甘く苦く それは堕落じゃなく」は、マサムネさんがアーティストとしてたどり着いた心の持ちようなのだと思います。大衆の反応は大衆の反応として受け止めて、甘いものも苦いものもありがたく享受する。とまあ、何か仰々しい書き方をしましたけれども、ようは、ウィリーを披露してウケたことを素直に喜ぶ、という単純なことが大事だといいたいのだと思います。
決して、ウィリーでウケたことを喜ぶのは、堕落じゃない、ということなのです。
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