
こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「あわ」について解釈していきたいと思います。
この曲は、この八百屋さん的には、日露戦争の話じゃないかと思っています。何をまたトンチキなことを言っているんだと思いましたか。私もそう思います。ええそう思います。
ただまぁ、マサムネさんはこの時代、ロックを作りたかったということは、ヒシヒシと伝わってきます。そして、世界中のロックスターが反戦をテーマにした曲を手掛けているのです。マサムネさんもまた、このテーマに無関心だったはずがないのです。自分の手で、反戦をテーマにした曲を作ってみたい。そう考えていたに違いありません。
この、自分のロック性を音楽に込める機会をうかがっていた時に、考え付いたのが、この詞なんじゃないかなと思います。
まずタイトルの「あわ」ですが、あわとは、液体もしくは固体の中に空気などの気体を含んだ丸いものです。そのままでは、何のことか、よくわからないですよね。
この詞を解読するのに必要な情報が、詞の最初にあります。そうです。「本当はさかさまだってさ」とのことです。
つまり、あわを逆さまにするのです。あわとは逆に、気体の中に、液体もしくは個体を閉じ込めた丸いものを意図したものだと言いたいのです。つまり、つゆ(露)のことです。
このように、詞の意味を逆さまに読んでいくと、やがては全体が見えてくるような仕組みになっているんじゃないかなと、この八百屋さんは睨んでいます。
ちょっとやってみましょう。
こっそりみんな聞いちゃったよ
本当はさかさまだってさ
→大声でみんなに言っちゃうね。
本当はこの詞はさかさまなんだよ
小さな大きなまなざしは
空に抜けていった
→(昔、戦争があって)大きな瞳も、小さな瞳も、大人も子供も、地の底に落ちていった。
すぐにショーユのシミも落ちたよ ほら
びっくり大笑い
→なかなかショーユのシミが落ちない
びっくり大激怒
ショーユ(日本人を意味する)は小さい島国ながら、日清戦争により満州まで進出してきた。地図の色が、ロシアの喉元まで日本色になってしまった。
これが中国を支配下に置き、オホーツク海域を掌握したいロシアを大激怒させた。
今日もこんなひょろひょろの風の中
ぼんやりしてようかなぁ
→今日もこんなバンバンな雨あられの中
突撃しようかなぁ
日露戦争は、ロシア側の軍事拠点である旅順要塞の攻防戦だった。日本側の無理な攻撃は要塞砲の餌食となった。カノン砲による弾丸の雨あられにさらされ、日本側はいたずらに死者を増やすだけになった。
あわになって溶け出した
雨の朝
→露は溶けだした
晴天の朝
「本日天気晴天なれども波高し」
日露戦争の終盤、日本海海戦直前の連合艦隊出動時、秋山真之中佐が大本営へ打電した、有名な文面の一節。
世界最強の艦隊である、ロシアのバルチック艦隊との決戦。誰もが日本の敗北で終わるとみていたこの戦いは、一転、日本の大勝利に終わり、世界最強の艦隊は日本海に沈んだ。
寒いな畳のにおい
優しい人やっぱりやだな
→熱いな日本人のにおい
逞しい人がやっぱり好きだ
畳もまた、日本でしか使われていない文化、つまり日本のことを表す。
この頃の日本人は、侍のように気高い心を持っていた。
しっかりなんてできないけど
僕はここにいた
→しっかり国を守るために戦う
僕は戦争に行く
でっかいお尻が大好きだ
ゆっくり歩こうよ
→女性の尻ばかりを追いかけているような軟弱野郎は大嫌いだ
さっさと歩け。戦地まで行進せよ。
わざとがっかりしたふり かごの中
誰も見ちゃいないさ
→日本人のことを、大人しい籠の中の鳥だと思ったか。
今こそ世界中に日本人の意地を見せるぞ。
機関銃を持ち出して
飛行船を追いかけた
雨の朝
あわになって溶け出した
雨の朝
→機関銃を持ち出して、バルチック艦隊を待ち伏せた。
晴天の朝
露は溶けだした
晴天の朝
という感じで、詞の内容をさかさまにしてみましたが、いかがでしょうか。まあまあ意味が通じるようになっていると思います。
もし、この説が正しいとして、問題にしたいのは、この詞を作ったマサムネさんの意図です。日露戦争での出来事を綴った詞をさかさまにして、何が言いたかったのでしょう?
私の憶測ですけれども、この「あわ」で描かれていることが、そのまま反戦の態度になると考えたからかもしれません。戦争時に考えていたことと、さかさまのことをする。それが平和な国家を作るうえで、もっとも大事にしなければならないことなんじゃないかなと。そいいうメッセージが、込められているんじゃないかなと思うのです。
ご存じのとおり、日露戦争は日本の勝利で終わりました。とはいえ日本に得るものが少なく、また最大の敵であるアメリカを利するのみに終わりました。日本の一時的な勝利が、結果的にアメリカの対日感情を煽ることになり、最悪の太平洋戦争へと引きずり込まれることになっていくのです。戦争は勝っても負けても、何も生まないどころか、新しい火種を増やすだけなのです。
そういう目線で詞を眺めると、本当の意味である日清戦争の詞は、いかにもかっこよく、日本人の美徳や魂といったものを強調するような詞になっています。なので、そのさかさまの「あわ」は、いかにもカッコ悪く、まぬけな詞になっています。
「しっかりなんてできないけど」とか「でっかいお尻が大好きだ」とか。平和ボケだと、怒られるような内容になっています。
しかしながらこの姿勢は、戦争を放棄し平和を維持するという目的においては、戦略的には正しいのです。挑発されて怒って、日本人の美徳だなんだと言ってカッコよく戦争を仕掛けるような無能が、日本を滅ぼしたのです。その次の世代の日本人は、先の戦争を反省して、平和ボケを装ってきたことで、以降戦争に巻き込まれることはありませんでした。今このブログを、温かい部屋でリラックスしながら読むことができているのは、平和を維持するために正しい判断を選択し続けてきたためです。平和ボケし、愚かな日本人を装い続けてきてくれた結果なのです。平和を、どことも戦わずして勝ち取るという、孫氏の兵法における、もっとも最良の勝ち方を選び取ってきてくれたのです。
なので、「でっかいお尻が大好きだ」と無能を装い、他人に笑われる屈辱を受け流すことが、もっとも反戦の態度としては適切だと、私は思うのです。
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