こんにちは。八百屋テクテクです。
今回は、スピッツ「ありがとさん」について解釈していこうと思います。
歌詞を眺めてみますと、「君」とはすでに別れていることがわかります。
問題は、どうして別れることになったのか、ということです。もっといえば、別れた理由は死別なんじゃないか、と考えています。
えっ、どこに、そんな死別の要素があるの?
と思いましたか。なるほど。ちょっと詳しく見ていきましょう。
君と過ごした日々は やや短いかもしれないが
どんなに美しい宝より 貴いと言える
お揃いの大きいマグで 薄い紅茶を飲みながら
似たようで違う夢の話 ぶつけ合ったね
前提として、マサムネさんが作る歌詞は、俳句や短歌みたいに、少ない文字数の中でどうやってやりくりして、多くの意味を忍ばせようかと腐心している、という視点で眺めてみます。つまり、ちょっとした違和感のあるワードやエピソードがあった場合、そこに重要な意味が込められているというわけです。
今回の歌詞において私が注目したのは「似たようで違う夢の話」という部分です。これは一体、何を話し合っていたのでしょう?
似ているけれど、違う話って、なかなかシチュエーションを思い浮かべるのは難しいですね。それも、夢の話です。ぶつけ合ったわけですから、この場合の夢とは、睡眠中に見る荒唐無稽な夢の話ではなく、未来に叶えたいという意味の夢の話でしょう。「お揃いの大きいマグ」を買いそろえるぐらいの関係の二人ですから、恋人同士であることも、ここでわかります。つまりここでは、恋人同士による、お互いの将来の話をしているわけです。
ところが、この二人の将来は、似ているようで、まったく違うものを夢見ていたようです。これはいったい、どういうことでしょう?
でも、この謎な展開は、「君」の寿命が長くないことを「君」が知っていた、という事実があれば、すんなり理解することができます。
「僕」としては、「このままずっと一緒にいたいね」と願っているし、そう口にしていたはずです。結婚して新居を購入し、子供を授かり、家のローンと子供の教育費を稼ぐために会社を定年まで勤めあげる。そうやって、おじいちゃとおばあちゃんになったら、二人の年金で細々と庭で野菜でも育てながら暮らしていく。そういう夢を描いていたはずです。
一方の「君」もまた、「ずっと一緒にいたいね」と応えたはずですが、ここでの意味はまったく違います。「僕」の場合は夢というよりプランに近く、このまま頑張れば難なく実現可能なレベルの夢となっていますが、寿命が残りわずかな「君」にとっては、このプランは実現不可能な、まさに「夢」となっているのです。
このすれ違いはお互いにとって不幸ですが、さらに不幸なのは、「君の寿命がいくばくもない」ことを、僕は知らなかった、ということです。
浮かれている僕を悲しませたくない、と思うばかり、彼女は言い出せなかった、というわけです。
どこにそんな記述があるのかというと、もうちょっと後ででてきます。
あれもこれも二人で 見ようって思ってた
こんなに早く サヨナラ まだ寒いけど
ホロリ涙には含まれていないもの
せめて声にして投げるよ ありがとさん
「僕」からすると、「君」との生活は希望に満ち溢れていました。連休には遠出したり、盆や正月などまとまった休みには、海外に旅行にいくことも考えていたでしょう。あれもこれもと、見たいモノが沢山あったようですが、それらすべてを周るのに、どれだけの月日がかかるのでしょう? まとまった休みなんて年に数回しかありませんので、普通は何年もかけて楽しむものです。つまり、「僕」は、「君」との未来がすくなくとも数年先まであると思っていた、ということです。
でも、「君」とは、予想よりもずいぶん早く、サヨナラしてしまった。
死別した直後は、嘆きしかでてこないでしょう。心臓をもがれたような、身体の一部を失くしたような、そんな激痛が襲います。出てくるのは、悲しみとか、悔しさとか、そういうものしかないでしょう。
でも、この詞は「君」を失くしてから、しばらくの時間が経過した頃の様子っぽいですよね。悲しみや痛みが消えたわけではないとは思いますが、こういう場合って、失ったことに対する悲しみにずっと浸りつづけることが、はたして「君」への供養になるのでしょうか? 「君」がもし亡霊となっていたとしたら、ずっと悲しんでいて欲しい、と「僕」に願っているのでしょうか?
そうは思えないですよね。
また、「君」は、死ぬ間際まで「ありがとう」と言っていたはずです。だって「僕」とは、「似たようで違う夢の話をぶつけ合った」仲なのですから。
この「君」の、「僕」に対する感謝に対して、「僕」は最後まで、ただ嘆くことしかできなかった。
生きている状態の「君」に対して、感謝の気持ちを伝えることが、できなかったんですね。
そう考えた時、「君」には改めて、「ありがとさん」という言葉を投げたい、と考えたのではないのでしょうか。
謎の不機嫌 それすら 今は愛しく
顧みれば 愚かで 恥ずかしいけど
いつか常識的な形を失ったら
そん時は化けてでも届けよう ありがとさん
「謎の不機嫌」は、先ほどの「似たようで違う夢の話」をした直後の、彼女の反応だったのではないのでしょうか。「君」は、「僕」の会話がかみ合っていないことに、腹立たしさを覚えていましたが、それもしょうがない、と僕に話を合わせる形で、僕の誤解をついに解くことなく、会話を終えています。
「彼女のあのときの不機嫌さは、僕を心配させないようにしていたためだったのか……」
と思い返したとき、「今は愛おしく」なるのと同時に、「顧みれば 愚かで 恥ずかしい」という思いに駆られるのではないのでしょうか。なんで気が付いてあげられなかったのか、と、自分の愚かさを責めたくなるのも、仕方のないことです。
最後に、「いつか常識的な形を失ったら そん時は化けてでも届けよう」とありますが、これは彼女に会いに行く手段が、化けて出るしかないからですね。
化けてでも、なんとしてでも、最後まで伝えることができなかった「ありがとさん」を言いたい、と強く願っています。
最後に、
君と過ごした日々は やや短いかもしれないが
どんなに美しい宝より 貴いと言える
と続いて、この詞は終わっています。歌詞の意味をここまで解釈した後だと、想像以上にズッシリくる歌詞だと思います。
「ありがとさん」で伝えたかった感謝の内容が、この一文に現れています。
という感じで解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか?
通常運転、と表現しちゃいますと、詞に込められた想いが薄まるような気がしちゃいますけれども、でもこの詞もまた、いつものマサムネさんらしい、繊細な曲だと思います。
いつもの曲と同じように、この曲もまた、私たちの心に訴える力が強い、いい曲だと思います。
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