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悪意に飲み込まれた森田町と、悪意に打ち勝った鯖江市~本当は怖い福井県~

更新日:2023年3月18日



みなさんこんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、本当にあった、怖い歴史の話をしていこうかと思います。


福井県福井市にお住まいのみなさん。「森田町の悲劇」をご存知でしょうか。

今から約60年前の話なので、知っている方は、60すぎの方に限られてくると思いますが、もしかすると私のように祖父から言い聞かされてきた方もいらっしゃると思うので、若い人でも知っている人がいるかもしれません。

そもそも、森田町は今は消滅してしまった町です。とはいえ、「森田小学校」「バロー森田店」「福井銀行森田支店」など、地域を表す名称としては、未だに使用されています。どのあたりが森田を表すのかは、福井市在住の方だったら、だいたい把握できているのではないのでしょうか。

そんな森田町は、60年前、福井市に合併されたことで、消滅しました。

この出来事を巷では「森田町の悲劇」と呼んでいます。

「森田町の悲劇」の話は、のちに解説する鯖江市の危機の際に役立ちました。「我々も森田町の二の舞になってしまう」と市民が立ち上がり、この危機に立ち向かったのです。そのおかげか、鯖江市は福井県を代表する産業地域になり、所得や貯蓄、教育などの生活水準は高く、各分野において日本でも注目される街として認識されるようになりました。

一方で、旧森田町の地域は、60年前の過ちを引きずり、未だに立ち上がることができずにいます。


いったい、森田町に何があったのか。

なぜ、「森田町の悲劇」と呼ばれているのか。

このあたりを、解説していきたいと思います。



話は、戦時中にまで遡ります。

1945年7月19日の午後11時24分から翌日午前0時45分にかけて、アメリカ軍による空襲がありました。福井大空襲と呼ばれたこの空襲は、全国トップクラスの大規模なものであり、市街地は灰塵になり、損壊率85%、死者1,576名の犠牲を出しました。

戦後復興のさなか、今度は1948年6月28日午後4時13分頃、丸岡町を震源とした福井大震災が発生。福井平野のほぼ全域に甚大な被害をもたらし、死者3,769名、前回した家屋は3万6000戸にもなりました。

また、その時に堤防が被害を受け、1か月後の7月の大雨により九頭竜川の水が決壊。ここでも福井市内に大きな被害がでました。


空襲、地震、水害に、福井平野は蹂躙され続けたのです。


しかし、それからの復興は目を見張るものがありました。全国から救援、支援物資が届けられ、福井は急速に復興していきました。のちに制定された福井市民憲章において、不死鳥がロゴマークとして採用されたのは、この出来事によるものです。

と、美談のように復興劇を書きましたが、戦後の混乱期ですから、当然裏もあります。

というのも、全国から福井県に寄せられた救援、支援は、すべて福井市中心部の復興に当てられたのです。森田町など、福井市の外側にあたる地域には、ほとんど振り分けられることがありませんでした。福井市はすぐに復興しましたが、そのほかの地域の生活は、災害後ずっと苦しいままでした。建物はもちろん、道路や、通行に関わる橋まで、生活に関わるほとんど一切を自分たちでなんとかしなくてはいけませんでした。


「福井市は、私たちに回ってくるはずのお金を、着服した」


そう、怨嗟の声をあげ続けるひともいました。戦争を経験した私の祖父はすでに故人ですが、私の祖父と同年代の方で、森田に住んでいる方でしたら、大なり小なり、誰もがうなずく話だと思います。

幸い、私の祖父は農業をやっていたので、食べ物には困りませんでした。が、福井市の外に住んでいる方で、蓄えのなかった人はどうなったのでしょう。人には言えないような稼業で、食つなぐしかありませんでした。当時のことをあまり話したがらないのは、誰もがその脛に傷を抱えているからでしょう。

祖父の知人で、誰に対しても親切な、仏様のような人が森田町にいました。祖父は拝むように「アナタのような人間のできた人が、極楽にいくのでしょうね」というと、彼は影のある笑顔で、こう答えたと言います。「私は極楽には行きたくない。極楽には友達がいないからね。私の友達は、きっと、みんな地獄の底にいる」と。

彼の友人をして、地獄の底へと歩ませたのは、福井県の、福井市に対する特別な便宜であったと、見ることができるでしょう。



それでも、いや、それからが森田町のすごいところでした。戦前から繊維産業で栄えた町でしたが、戦後の需要増大の波に乗って、空前の復興を果たしました。町の財政も潤い、福祉も充実してきて、福井県の中でも特に発展した町となりつつあったのです。町の財政に関しては内部留保も多く蓄えることができるようになりました。この蓄えは、森田町の土地整備や、橋梁の架設、学校など公営施設の建設などに当てられるはずでした。


そこに目を付けたのが、福井市です。


福井市は、森田町に「合併しないか」と持ち掛けてきました。福井市の言い分は、市町村合併をすることで行政的なメリットが生まれるというものでした。道路整備をはじめとした都市計画については、小さな自治体で個別にするより、大きな市となって包括的にするほうが、スムーズですし、小さな町同士が合併して大きな市としてまとまることが、世の中の流れでもありました。

でも、森田町の住民は、福井市の思惑を見抜いていました。


「森田町の税収と、内部留保が目的だろう」


森田町の住民だけではなく、その当時の人々にとっては、なかば常識の話でした。

寄付金によってぬくぬく整備された福井市と、自力でもがいてもがいて、やっと復興した森田町。どちらに稼ぐ力があるかは明らかです。森田町は、稼ぐ力があったのです。その稼ぐ力を、政治力で取り込んでしまいたいというのが、福井市の考えでした。

当然、森田町民は反対しました。行政上メリットになると言われても、それよりも税収が奪われることが深刻でした。なにより森田町民は、戦後の福井県の振る舞いを覚えています。福井県には、福井市中心部を発展させることしか頭になく、福井市中心部の地権者、有力者に便宜を図ることしか頭にありません。そんな福井市に、財政の手綱を握られたら、森田町は終わってしまう。……。

森田町議会は、合併に反対の意向を示そうとしましたが、そんな森田町議会に対して、福井市は、合併の説明会を開きました。

会場に座らされた町議たちに、弁当が配られました。その弁当の蓋を開けると、大金が入っていました。


「なんだ、これは!」


町議のひとりが、怒って立ち上がりました。贈賄だ、と気が付いた瞬間、速攻で席を立とうとしたのです。こんな田舎の町議にも民主主義の高潔な精神が育っていることに感動します。

が、その町議を、暴力団員が取り囲みました。


「座れ!」


睨まれて、町議は大人しく座らざるを得ません。逆らえば、翌朝には遺体となって九頭竜川に浮かんでいることでしょう。

この後、市町村合併のメリットを、こんこんと説明されました。福井市側の説明では、「森田町民にはよくご理解いただけた」ということになっているのでしょう。

最後に、ひとりひとり、「お弁当の中身」を懐にいれたかどうかを、念入りにチェックされました。主催者は町議に顔を近づけて、


「くれぐれも、よろしくお願いしますね」


と笑顔で言いました。

会場で立ち上がり、怒りを示した町議は、その後も長生きをしました。賄賂を受け取りはしたものの、投票は自由意志です。森田町民のため、彼は合併に反対票を入れようとしました。

でも、いざ投票箱を前にすると、とたんに足がすくんでしまった、と言います。

直前まで、自分は高潔な代議士であろうとし続けました。でも、怖くなってしまった、と後悔にまみれた告白をしました。お金を握ったその手では、反対票をかけなかった、と。



そんなわけで、1967年7月30日をもって、森田町は地上から消え、福井市に合併されました。

それから、森田の凋落は早すぎました。旧森田町民が危惧したように、福井市は旧森田町の財政を、福井市中心部の開発に注ぎ込んだのです。その後60年後の現在に至るまで、森田は福井市から見捨てられた地域となりました。

私が中学生の頃は、森田中学校といえば「不良教師の左遷先」と噂されていました。福井市中心部には素行がよい教師を配置し、福井市でも素行が悪い教師は森田中学校に集められていました。実際、私が通っていた頃に教師を務めていた方で、私が卒業後、生徒を殴りすぎて退職に追い込まれた先生が二人、生徒もしくは未成年者と淫行事件を起こして退職に追い込まれた先生が二人、いたと記憶しています。実際に退職に至らなかった事例でも、校長自らが生徒や先生に対して暴言を吐き続けていたとか、そういう狂ったこともありました。

私の中学の同級生で「将来学校の先生になりたい」という夢を持ったひとは、私の知る限りでは、一人もいませんでした。高校に入って、別の中学校出身の女子生徒がキラキラした目をしながら「学校の先生になりたいんだ」と話しているのを聴いた時には、「正気か……」と仰天した覚えがあります。たぶんこの女子生徒は、よい先生に囲まれて、幸せな中学生活を送っていたのでしょう。

とにかく、福井市の、森田に対する扱いは、一事が万事、こういう感じなのです。


のちに、鯖江市も福井市との合併話が持ち上がった時に、鯖江市民は一斉に反対しました。

福井市の狙いは、当然、鯖江市の税収と財源です。鯖江市は技術のカタマリをもって世界のシェアを奪い、活躍している企業が沢山あり、かつ人口も企業も所得も、増え続けている地域です。かつての森田町を思わせる発展をしてきています。

そんな鯖江市が福井市に加われば、鯖江市の税収を福井市の中心部にあてがうことができる。そう福井市は考えたに違いありません。

さらに、人口増加により中核市への成長も見込めることから、福井市はなによりも気合を入れて、この合併に臨んだと考えられます。

しかし、分別ある鯖江市民は、強固に反対しました。合併に賛成派の現市長を追い出して、反対派の市長を担ぎ上げるなど、必死に抵抗をしたのです。

それは、鯖江市民の頭の中に「森田町の悲劇」があるためでした。福井市に合併されれば、自分たちは、森田町と同じく、見捨てれられた地域になってしまう。……。

結果、鯖江市は独立を保つことに成功したのです。ここから、鯖江市の発展が続いていきます。人口が減り続ける福井市を横目に、福井市の悪意に打ち勝ち、なおも人口を増やし続ける鯖江市。鯖江市は、これからも発展し続けることでしょう。

そして、悪意に飲み込まれて消滅した、旧森田町。この二つの差は、とてつもなく大きいです。



本来、行政とは、市民の富を再配分する機関であるはずです。でも、その行政をつかさどる立場の人間が、特定の地域、特定の市民に便宜を図り、そのほかの市民の幸福を考慮しなかった結果が、この「森田町の悲劇」なのです。

こういう事例は、全国に多々あると思いますが、私が見聞きしてきた福井の怖い話として、「森田町の悲劇」もまた、ここに記しておきます。





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