ふくい花鳥風月~八百屋さんからみた福井の風景~
- 2023年1月25日
- 読了時間: 14分
更新日:4 日前
こんにちは。八百屋テクテクです。
こちらの項目では、福井の景色を八百屋さん目線で紹介しています。
福井の四季折々の景色を通じて、美味しい野菜が育つ土壌を感じられるように、紹介しています。
通常の観光案内などでは語られることがない、コアな福井を楽しんでいきましょう。
福井市・永平寺エリア
奥越エリア
丹南エリア
嶺南エリア
もっと!ふくい花鳥風月
とはいえ、写真をずらずらと見ただけでは、他のSNSを眺めているのと同様に、あまり得るものがないと思います。
それはたとえ、現地に足を運んでも同じです。八百屋テクテクが紹介している福井の風景は、美しい木々だったり、綺麗な水が主人公になっているわけですが、木や水は特に珍しいものではありません。それらをただ眺めているだけでは、心が洗われていくような感覚を得ることはできないでしょう。
もっと、心が動かされる体験が、そこにはあるはずだ。
それを期待して、ひとは旅行にいくのでしょう。日本を飛び出て、海外にそれを求める人もいます。
肝心なのは目の前の景色ではなく、私たち受け手の心構えだと思うのです。
心構えが備わってなければ、たとえ世界最高峰の芸術であるモナ・リザをみても、「ああモナ・リザだね」で終わるのです。これでは大金を払ってフランスまでいく意味がないでしょう。モナ・リザがどういう絵で、どういう姿形をしているかなど、昨今ではグーグル検索で詳細にわかるのです。「旅行って、わざわざ行く意味あるの?」って、問われた時、回答に窮するのは、今では調べれば何でもわかるようになったからなんですよね。現物を観に行くという、ただの確認作業では、心が動かされないようになっているのです。
とはいえ、「旅行の意味って何?」って問われた時、私はこう返答します。「スピッツの熱心なファンは、スピッツのライブにいくんだよ」と。
スピッツの曲は、日常でも耳に入ってきます。テレビ番組やCMでよく使用されているので、耳に入ってくる機会が多いのです。興味を持ったなら、ユーチューブの公式チャンネルに沢山の曲が公開されています。私たちは無料で、彼らの曲に耳を傾けることができるのです。
にもかかわらず、スピッツの熱心はファンは、高いお金を出してまで、スピッツのライブに出かけるのです。チケット代は今や1席1万円します。会場が遠い場合は、交通費、宿泊代もかかります。ユーチューブにて無料で公開されている楽曲を聴くのに、わざわざ大金を払い、時間を費やすのです。それはいったい、なぜでしょう?
アナタがもしスピッツのファンでないなら、スピッツのライブにいったとしても、ファンと同じだけの感動は味わえないでしょう。スピッツのライブは、ただ席に座っているだけの、苦痛な時間になります。チケットに大金を払い、時間を費やして、なんの感動も味わえないのです。
いったい、スピッツのファンは、スピッツのライブに、何を感じているのでしょう? なぜこれほどまでに熱心に、彼らのライブを熱望しているのでしょう?
ようは、旅行も、福井の景色も、これと同じなのです。
受動ではダメなのです。得たいと思っている物を自分から求めにいかないと、それは得られないようになっているのです。
旅行は、目視による情報の確認作業ではなく、もっと別の感覚器を働かせた、言葉や図式では説明のできない領域のものなのです。その領域で感じるものになってやっと、意味のあるものになるのです。
自分の中の感覚に心を傾けることが大事なのです。
前置きが長くなりましたが、ここからはより「ふくい花鳥風月」を楽しんでもらえるような、「心のもちよう」についてご提案をさせていただきたいと思います。これを踏まえれば、福井がよりよく映るだけでなく、アナタの人生にも彩りが加わることでしょう。
★デジタルデトックス
用語の使い方があっているかどうかはわからないのですけど、他にいい言い方がないので、こう呼ばせてもらいます。
普段はスマホやパソコンを通じて、何を見ているのでしょう? たぶんスマホやパソコンって、何か見たい物、知りたい事があってみているものだと思うのですけど、その結果スマホやパソコンのスクリーンは、何を映しているのでしょう? ある時は文字でしょうし、ある時は画像、動画だと思います。人間の求めに応じて、目に映るのに最適な形で、それらは現れてくれます。人間はダイレクトにその情報を脳に取り込むことができます。
そのおかげで、まるで蛇口を喉に突っ込まれたみたいに、あふれる情報を際限なく飲みこんでいくしかないのです。
これがさらに、SNSに代表されるような、人間の欲望を刺激する情報だとしたら、さらに危ないものになります。嫉妬、怒り、悲しみ…SNSでは毎日のように、誰かが誰かを攻撃しています。それらは自分には関係のない、他人の怒りであるはずのものなのに、自分の喉に突っ込まれ、胃の中に流され続けているのです。もはや、自分の身体の中は、誰かもわからない赤の他人の怒りでいっぱいになっています。
残念ながら、いったん飲み込んでしまったものは、なくすことができないのです。怒りとか悲しみというものは、目に見えないものだから、ついすぐに消えてなくなるものだと思いがちですが、実は目に見えるものよりもずっと、身体の中に残り続けるものなのです。高カロリーのハンバーガーは脂肪となって身体に残りますが、運動すれば徐々に減り、やがて消えます。が、誰かへの恨みや憎しみは、どうすれば消えるのでしょう? 私たちは未だに、その方法を知らないのです。
だからこそ、自分の中に溜まった多すぎる情報と、それに伴う負の感情を、身体の外に排出していくことを考えないといけません。そうする努力を意識的にしていかなくてはいけません。
その方法の一つが、福井の風景に触れることだと、八百屋テクテクは思っています。
なぜ福井でなければならないのか、については後の項目にて触れるとして、なぜ風景でひとはデジタルデトックスできるのか、ということについて、少し話をしていきます。
といっても、先ほどの「スピッツのライブにいく」のと同じたぐいの話で、「そう感じようと望んでいれば、そう感じるようになる」という域をでない話かもしれません。大事なのは、それが人間科学に基づく確かな真実かどうかではなく、そう信じたがっている気持ちがあれば、そこに救いを求める、という姿勢なのかもしれません。
風景というのは、退屈なものです。なぜなら、情報の形をしてないからです。どれだけ満天の星空であっても、3分も見続けていれば飽きるものです。
一方で、スマホやSNSは、時間を忘れるほど永遠に見ていられます。
でもそれって、考えてみれば不思議な話ですよね。それだけの時間を費やしたのなら、さぞ貴重な経験なり知識なりを、私たちは享受できていたはずなのです。でも、SNSは私たちに、何も与えてはくれません。そればかりか、憎悪や妬み、怒りなど、不要なものばかりを押し付けられてます。本当は自分にとって有益な情報を仕入れているつもりで、スマホの画面を覗いていたはずなのです。でも有益なものが何も得られないばかりか、悪いものばかりを取り入れてしまう……。
有益なものだと思っているものは、無益なものだった。これは人間社会において常に起こりうる現象です。
逆をいえば、無益だと思っていたものが、実は有益なものだった、ということもまた、常に起こりうる現象です。
退屈だと思っていた風景を見ること。常に過剰な状態だった視覚からの情報、そして脳への負荷。これを退屈に置き換えることは、ただの無益なことなのでしょうか。無益なものとして退けてしまってもいいのでしょうか。
アナタは、植物を育てたことはあるでしょうか。植物の成長には肥料が必要ですが、その中でも人間が作った化学肥料は効率がよく、植物はどんどん栄養を吸い上げてくれます。世界の人口が近代になって爆発的に増加したのは、化学肥料が開発されたおかげでもあります。とはいえ、化学肥料にもデメリットはあります。使い続けると植物が弱くなり、虫や病気への抵抗力がなくなってしまうのです。これを解消するには、昔ながらの有機肥料を使用する必要があります。有機肥料は、植物が吸いやすい肥料ではないため成長という点では緩やかですが、その分、植物は栄養を吸おうと試行錯誤して、結果強くなります。また様々な微妙栄養素を提供してくれます。現代の科学でもよくわからない部分まで、有機肥料はカバーしてくれているのです。
人間もまた、生命をもつ生き物です。生命というのは、現代の科学や理論では説明のしきれない部分を含んでいます。いわば、私たちの思考できる領域の外に、その答えがあるのです。人間は古来、芸術や音楽に、その答えを求めたこともありました。頭ではなく、感覚で、その秘密に迫ろうと試みていたのです。
スマホやパソコンから提供される情報は、確かに私たちの生活にとって必要なものです。でもそれは化学肥料のようなもので、それだけでは不十分であるといえるでしょう。人間がつくった確からしさというのは、人間が考えられる小さな範囲内でのものに過ぎないのです。なので、有機肥料にあたるものを摂取する必要があります。昔から、植物に寄り添ってきてくれた有機肥料。それにあたるものは、一体なんなのか。
それは、満天の星空とか、綺麗な水とか、広大な自然とか、そういう景色のことだと、八百屋テクテクは思います。
退屈なものに向き合い、時間を浪費する。スマホから得られるはずだった知識や経験を得る時間を、あえて捨てる。
そうやって自然に向きあうことで、だんだんわかってくることがあります。情報としてでなく、感覚として。
有機肥料から得られる、ごくごく微量な、人間の科学では説明しきれない小さな小さな栄養を、植物が摂取するように。人間もまた、ごくごく微量な、よくわからない何かを自然から得ようとするのは、必要なことだと思うのです。
★風景は見える。命は見えない。
目に見えないものって、存在しないと思いますか。
命とか、タマシイの存在とか、すでに科学で完璧に証明されている分野のものだと思いますか。
確かに、科学で説明できることもあります。生命とは結局、有機物の集合にすぎないのです。進化は、生物が種を保存するために行ってきたもの以上の意味はありません。よって、私たち人間には、生まれた意味も生きている意味も存在しません。虫や草などが存在している以上の存在意義を、私たち人間もまた、持ちえないのです。これが、科学的な生命の結論です。
ではなぜ、ひとは悲しんだり、誰かを憎んだり、誰かを愛したりするのでしょう。なぜひとは、感動するのでしょう。それもまた、進化の過程で備わった副産物にすぎない、と無機質に決めつけてしまっていいのでしょうか。
上記の思考は、科学で説明できることが全てだと思い込んでいるからこそ、陥ってしまうことです。
まだまだ現在の科学では説明ができないことは、いくらでもあります。光の速度で1000億年かけて進んでも到達できない場所にまで宇宙が広がっており、その宇宙の中にある星の数は、兆とも京とも言われています。今まで地球上に生まれた人間の数よりも多いのです。人間ひとりが、ひとつの星を任されたとしても、今地球上にいる人間の数程度では、全然足りないのです。この程度の数でしかない、小規模な生物である人間の頭でたどり着くことのできる真実など、本当にちっぽけなものなのです。
現代科学を信じないわけではないのですが、でも、現代科学がすべてだと言い切るには、ちょっとまだ早いと思わざるを得ません。まだまだ思考の外側に、多くの未解明な何かが広がっていると思えます。私たちは地球の陸の部分の景色ならグーグルでほぼほぼ見ることができるようになりましたが、海は見ることができません。そして、海洋面積は地球の70%以上です。私たちは、自分の星である地球の、30%のみを理解したことで、この星の全てを理解し、支配した気になっています。
命においても、そうです。命は、私たちひとりひとりの持ち物です。それに、科学的に解明されている部分も確かにあります。でもその事実をもって、理解した気になって、それ以上考えるのをやめているのではないのでしょうか。
もちろん、考えないからといって、それは別に悪いことではありません。それに、どれだけ考えても、新しい発見なんてできないでしょう。
ただ、改めて想いを馳せることもまた、無意味なことではないはずです。
このコラムにて提供している、福井の風景は、「命」という観点を含んでいます。
単に、美味しい野菜が育つ風景というだけに留まらないのです。そういう思惑を持って、見たり触れたりしてもらうことで、命を感じてもらえたら嬉しいです。
はたして福井では、どのような命が育まれ、息づいているのでしょう。
★The Coming Of The Roads
カミング・オブ・ザ・ロードは、1960年代に制作されたフォークロックです。
緑が豊かだったこの土地。
この土地に、富を求める多くの人が移り住んできた。その結果、道路ができ、開発が進み、工場が出す煙と機械の油にまみれた街になってしまった。
君はかつて緑豊かなこの土地を愛した人だったけれど、やがては煙と油が作り出してくれる金を愛するようになってしまった。
開発され、道路ができたせいで、君が僕のもとから去っていってしまった。
簡単に訳すると、こんな感じの曲です。
環境問題に焦点を当てたこの曲ですが、当時のアメリカはもちろん、日本もまた富を追い求めた人々によって、美しい自然は乱開発され、工場やビルが建設されました。空気、水、大地に汚染物質を垂れ流し、光化学スモッグ、水俣病や喘息などに悩まされるまでになりました。そうした過程の中で、美しい緑は、今や忘れられた存在となってしまったのです。
いやもちろん、田舎にいけば山林は残っています。キャンプブームなどもあり、山林深くに侵入し、火を焚いてバーベキューとかする人もいるでしょう。
でも実は、違うのです。昔の人が当たり前のように愛していた、豊かな緑とは、キャンプ場で眺めることのできる緑のことばかりではないのです。
緑には、自然には、いろんなグラデーションがあるのです。
農業って、実は環境破壊だという考え方があります。そこにあった緑を整地してまっさらにして、畝をたて、作物を植え付けるのです。人間の都合のいいように自然を作り変えたのが農業です。
とはいえ、人間が行う農業もまた、自然の中に組み込まれていきました。なぜなら人間もまた自然から生まれたものだからです。自然の力を利用して作物を育てる。それが農業なのです。
今の農業は機械化が進みました。ハウスを建造し、農薬や化学肥料を散布するようになりました。なのでビジュアル的にはなおさら環境破壊のように見えます。が、それでもなお、天から降る雨水に頼っていたり、太陽の光に頼っていたり、土の中に棲む微生物たちに頼っていたりします。自然の力に左右される業であり、自然の中で営まれているのもまた、確かなことです。
農業は、自然か、非自然か。農業ひとつをとっても、これだけの自然の見方、見え方があるのです。
先ほど私は、「美しい緑は、今や忘れられた存在となってしまった」と言いました。ようは何が言いたかったのかというと、昔はいろんな形で自然を取り入れ、同居していたはずだったのに、私たち現代人の目には、それがわからなくなってしまっている、ということです。知識としても感覚としても、自然が身近でなくなってしまったので、たとえば原生林のような場所までいってキャンプしないと、自然を感じることができないようになっているのです。
もっと自然と同居した状態というのが、昔は、多く存在しているはずなのです。これまで人間は、自然と同居して、長く付き合ってきたのですから。
その、自然と一体になった街の一つが、福井です。
福井の存在の在り方が、かつて「The Coming Of The Roads」の主人公が理想とした、人間と自然との共存する姿を体現しているんじゃないかなと思うのです。「The Coming Of The Roads」の舞台となった街は、いまや煙と油に覆われた街となってしまいましたが、福井では富を追い求める人が少なかったので、昔ながらの、人間と自然が同居していた痕跡が多く残されています。
むしろ、見捨てられた、と言ってもいいかもしれません。豊かな自然というのは、金にならないからです。でも金にはならなくても、ある意味では豊かさにはなりえます。金という基準とは別の、昔の人が必要としていた豊かさなのです。昔の人が慈しみ、育て、そして私たち現代人が失ってしまった何かが、福井には打ち捨てられたまま綺麗に残されているのです。
The Coming Of The Roadsの、かの街が失ってしまった、美しい自然との共存する人々の姿。
人間との共存の中で、さまざまな形に姿を変えて、今も生き続けている自然のグラデーション。
そんな観点で、福井の自然を覗いてみると、新しい発見があるかもしれません。
古い時代の人間が持っていたはずの感性、でも今の現代人には失われてしまった感性。それを再び手に入れることができるかもしれません。



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