top of page

お堀の中に県庁を作ったことは、大失敗でしたね。~本当は怖い福井県~

更新日:2023年2月23日



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回も、福井の怖い話をしていきたいと思います。

今回のお話は、「過去を捨て去ったことで、未来をも捨て去ってしまった話」です。



ひとはよく、「過去なんて捨てちまえ」とか、「過去にとらわれるな」っていうのを、しばしばスローガンにします。

いつまでも過去の栄光に囚われて、目の前の現実が見えていない人とか、逆に過去の失敗をクヨクヨ悩んで、次のステップに進めない人。そんな人に対してかける言葉としては、適切なものなのでしょう。


しかしながら、過去を捨て去ってしまったことで、大失敗してしまった例が、実は福井にはあります。

その最たる例が、福井県庁です。



福井県民なら、福井県庁がどこにあるか、ご存知ですよね。

そうです。お堀の中にあります。

お堀の石壁の上に、真四角の、鉄筋コンクリート作りの福井県庁が、ドーンとそびえているわけです。

もともとのお堀の主は、柴田勝家が建てた福井城(北ノ庄城)でした。それから幕末の賢候松平春嶽に至るまで、長い歴史を誇るお城がそこにそびえていたわけです。政治的な中心だったお城は、しかしながら、明治維新後も役所として使われていました。これは福井のオリジナルだったわけではなく、全国どこでも普通に見られた光景だったようです。今までずっと、お城を中心とした街づくりがされていたことから、市民のアクセス的な観点で、やはりお城を役所として使用することは、理にかなっていたわけです。

しかし時代が変わるにつれて、その様相にも変化が現れました。新しい産業が成長するのと同時に、全国のほとんどの土地にて、人口の流動がありました。それとともに、古い町並みを保持しよう、とする動きも高まっていきました。近代都市として、新しい町並みを再構築していく一方で、古い町並みは歴史的建造物として、学術的な資料館に、または観光名所化していったのです。お城など、その代表例だったわけです。

福井藩以外の他の主要なお城を見てみますと、そのほとんどが立派に復元されています。悲しいことに、唯一沖縄の首里城のみ焼失してしまいましたが、あとは全国どの都道府県に行っても、その県を代表する城がそびえているはずです。

これには、とても驚かされます。

東京、大阪、愛知などは、人口密集地です。歴史に価値を見出せない人々からすると、お城が建っている地区は土地の価値が非常に高いはずですから、取り壊して、貸しビルでも建てたいと思ったはずです。にもかかわらず、江戸城(皇居)、大阪城、名古屋城と、日本を代表するお城が、広大な敷地とともに残されています。当時の人々が、金に目をくらませず、良識的な判断で街づくりをしていったことで、後世の現代、私たちは荘厳なお城たちを、その歴史とともに目にすることができるわけです。



しかしながら。

その判断を誤ったところがあります。

そうです。我らが福井県です。

県庁が建てられたのは大正時代のことです。周りの県が、上記のとおり歴史と近代がともに息づく街づくりをしている中、ひとり福井県だけが、歴史ある福井城をぶっ潰して、跡地に県庁を建設したのです。



「福井県としては、市民ファーストの想いから、一番いい場所に県庁を建てます」



と、訳のわからない理由で、そこに決めました。

これには市民も怒りましたが、そのほとんどは「県庁は、県庁職員と知事のものだろう。上から目線をしやがって。殿様気分か」という内容の反発でした。市民と県庁の間で「殿様か」「いやそうじゃない」という次元の低い押し問答しかできなかったのです。「歴史的な建造物は、やがて未来の大きな財産になるから、残しておこうよ」という議論に持ち込めないまま、開発が進められてしまったわけです。



福井の展望を考える会みたいなのが、ここ最近たびたびあるのですが、その中で、「福井は魅力がある街だから、観光地として、ひと花咲かせられないかな~」なんて願望をよく聞きます。言いたいことはよくわかります。福井はとても魅力的な街だと、私も思います。

その一方で、


「無理だろう……」


というあきらめもまた、私の中にあります。

観光を下支えしているのは、その街の歴史です。例えば関東圏の方々は、北陸新幹線を使って、金沢に、何をしに行くのでしょう? また石川県民は、何をもって、関東圏のお客様をお出迎えするのでしょう? カラオケボックスですか? ゲームセンターですか? マックや吉野家で、リーズナブルな食事を楽しんでもらいますか? 違いますよね。

観光客のほとんどは、兼六園に行くでしょう。金沢城を訪問するでしょう。金沢の歴史ある街並みを歩き、その土地に染み付いた風や香りを楽しむわけです。石川にしっかりした歴史が息づいていることで、近隣の温泉街や、食べ物、飲み物、伝統工芸品に至るまで、金沢を中心とした石川のありとあらゆるものに、歴史という名の特別感が宿るわけです。

一方の福井は、どうでしょう。福井市民は、何をもって、関東からわざわざ足を運んでくれたお客様に、応えるべきでしょうか?

福井は、石川以上に、歴史があるといっても過言ではありません。古くは継体天皇が現れ、豊かな田畑と国府があり、蓮如上人のゆかりの地でもあり、道元の曹洞宗大本山永平寺があり、織田信長のルーツがあり、要害の地に朝倉家が居城を構え、戦国時代には数々の戦争の舞台にもなりました。時代が下って幕末には、橋本佐内、松平春嶽、由利公正という桀人が活躍しましたが、その後の明治維新に与えた影響は、吉田松陰や坂本龍馬に勝るとも劣らないと、どれだけの人が知っているでしょう?

金沢城にいけば、前田利家や利常、前田慶次郎が確かに存在したと感じることができますが、松平春嶽や橋本佐内の存在を肌で感じさせてくれるものは、福井にはありません。ないので、アピールもできません。



もう一つ、厄介なことが。

実は、福井城址に近い福井駅前の開発が、まったく進んでいません。福井市に住んでいる人ならわかると思うのですが、福井駅前って、ずーっと工事していますよね。横浜駅みたいに、路線が増えすぎちゃって、サクラダファミリアのような迷宮状態にしなければならないぐらい活発な人の流れがある、というわけでもありません。なのになぜ、いつまでたっても完成しないのでしょう?

実は、地面を掘ったら歴史的な遺跡がボコボコでてきた、という事例が続出しているからなんです。

いや、当たり前といえば当たり前なんですけど、福井藩は徳川家の母体である松平家が治めていた藩ですから、紀州や会津などと同じく、巨大な藩だったのです。福井城の範囲は広大で、今の福井駅周辺や、九十九橋、フェニックス通りあたりまであったとされています。地面を掘れば、遺跡がでてきて当たり前なんです。

そして、埋まっていたものが露出してしまえば、学術班による研究が終わるまで開発ができないという、開発側からするとめちゃくちゃ面倒くさいルールがあります。必要以上に福井駅前の工期が伸びていたのは、このためです。

福井駅前の開発に伴う、工事の面倒くささは、これからもずーっとありつづけるでしょう。

もしも、福井城と、県庁をはじめとする行政区や商業区を、あのときキッチリ分けて街づくりをしていさえすれば……、今の福井駅前の猥雑さを眺めるたび、また「福井を観光地にしよう」という声をきくたび、そう思わざるを得ません。



私たち福井市民は、大正時代に犯した間違いに、県庁をお堀の中に建設した弊害に、今も悩まされ続けているのです。





福井に詳しい八百屋さんが語る、怪談話はこちらからどうぞ↓


閲覧数:3,144回
bottom of page