福は厄災のもと。飯降山伝説~本当は怖い福井県~




「災い転じて福となす」という諺を知っていますか? 悪いことでも、それが逆にいいことに作用したという事例を、そのように言います。「塞翁が馬」も同じ意味の故事成語ですね。

「禍福は糾える縄の如し」とも言います。不幸と幸福は縄のように、表裏一体となって、つねに入れ替わってくるものだ、と昔の人は考えてきました。

なので「災い転じて福となす」ということもあれば、「福が転じて災いとなす」ということも、当然あります。


福井県に伝わる飯降山の伝説は、その代表例といえるでしょう。

飯降山伝説とは、いったいどういうものなのか。

と、もったいぶってお話をしてしまいましたが、伝説となった不思議な現象自体は、どうということはありません。この山の名前のとおり、空から飯が降ってきた、というのが、その現象のすべてです。

この山で修行していた尼僧たち3人の目の前に、飯が降ってきた、というのが名前の由来なのです。

これは、空腹の中で飯にありつけたという意味では、とても幸福な出来事だったでしょう。

しかし、この幸福が、のちに、とてつもない不幸を招くことになってしまうのです。


最初は降ってくる飯を仲良く分けていた3人でしたが、そのうち、こう考えるようになりました。

「頭数がひとり減れば、取り分が増える......」

そこで尼僧2人が共謀し、もっとも若く信心深い尼僧を、谷底に突き落として殺害しました。

ところが、殺害した次の日から、降る飯の量が減ってしまったのです。

減ったことに対する、教訓的な意味も悟れず、残った二人は争い、さらに互いが互いを殺そうとしました。その結果、体力のある尼僧が生き残り、もう一人は遺体となりました。

その次の日からは、もう飯が降らなくなったそうです。


人が人を殺す動機として最も多いのは、憎しみではありません。

利益のためです。

人間は、自分の利益のためなら、いとも簡単に良き隣人を殺してしまうことができる生き物なのです。

大きな利益に目がくらめば、人は理性を失ってしまうのです。

信心深くあろうとし、仏門を叩いた尼僧ですら、そうなってしまうのです。


福井県は、めだった産業や特産、観光スポットがなく、他県に後れをとってしまっている状況です。

しかし、もし、他の追従を許さないような、莫大な利益を生むような何かが福井で生まれたとしたら、どうなってしまうのでしょう?

飯降山伝説のような、血で血を洗う争いが起きてしまうかもしれません。

幸福を追求した結果、周りの人間が全員不幸になってしまうことに、なってしまうかもしれません。


「災い転じて福となす」

産業、特産、観光、めだったものが何ももたない、不幸な福井県。

しかしながら、何もないことが、すなわち、福である、ということなのかもしれません。

それを教えてくれるのが、この飯降山の伝説なのです。


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