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悪霊に念仏が効いたり効かなかったりするのは何故なのか?~本当は怖い福井県~



こんにちは。八百屋テクテクです。

今回は、悪霊に念仏が効いたり効かなかったりするのは何故なのか、について、独断と偏見で語っていこうと思います。

みなさんの前に悪霊が現れたら、どうしますか? たぶんお寺に駆け込んで、お経を唱えてもらうと思います。いや、というより、そのほかの方法なんて、あるのでしょうか? それ以外方法が思いつかないので、自動的にそうなると思います。そのぐらい、「悪霊に遭遇したら、とりあえずお坊さんを呼んで、念仏」というのが、一般的な認識だと思います。




ところで、この念仏が効かない悪霊もいます。これは厄介ですね。

福井県福井市の中心部にある、九十九橋に出現する、首無し亡霊武者の行列もその一つです。この武者の霊たちは、1530年に北庄城主(旧福井城)の城主であった柴田勝家が羽柴秀吉との決戦に敗れ、お市の方とともに自害した後から、1874年の明治時代に建て替えが行われるまで、じつに300年以上にわたって出現し続けたとされています。

この武者の霊、出現した期間もさることなら、呪いの力が非常に強力であることでも有名でした。この武者の霊に遭遇した人間は、もれなく、すぐに死んでしまったからです。これを恐れて、福井に住む住民たちは、出現する日の夕刻から戸締りをして、外を出歩かないようになったそうです。出現する日というのは決まっていて、柴田勝家が自害した4月24日なので、この亡霊武者たちは、柴田勝家の家来であることには間違いありません。

福井の民は、この亡霊を鎮めるために、当然ながら念仏祈祷を試したことでしょう。亡霊に念仏が有効だというのは、仏教が日本に伝来して以降の、一般常識だったからです。ましてや、福井は浄土真宗の信者が多いことでも有名で、寺院がいくつもある土地です。また曹洞宗の大本山である永平寺があります。これら信仰心の強い街の中でありながらも、不気味に現れる亡霊たち……これは、すごいですね。亡霊たちの怨念の強さというのが伺えます。キリスト教に置き換えるならば、バチカン市国に現れるドラキュラといったところでしょうか。生半可な悪魔では、聖地を踏むことすらできません。聖地を踏んでも平気なぐらい、強い悪魔なのがドラキュラであり、九十九橋の首なし亡霊武者の強さはそれに匹敵しているというわけなのです。


しかしながら。

九十九橋の首なし亡霊武者は、橋の建て替え以降、姿を見せなくなってしまいました。彼らは、いったいどこへ行ってしまったのでしょう?

九十九橋は、柴田勝家のお気に入りだったとされており、この橋がコンクリートに建て替えられたことで、がっかりして、未練がなくなった、という説があります。強力な亡霊だと思っていたけれども、最後はなんとまぁ、あっさりとした引き際ではありませんか。


こんな竜頭蛇尾な話を聞いて、ふと私は思ったのです。

もしかしたら、首なし亡霊武者は強力でもなんでもなく、実にものわかりのいい霊であったにすぎないけれども、当時の人々の、除霊のやり方がまずかったので、怒らせてしまっただけなのではないかなと。

もっといえば、念仏が、彼らを怒らせてしまったんじゃないかなと。




柴田勝家が福井に来る前の、福井界隈の状況をお話させてもらいますと、彼の前に越前を支配していたのは、教科書的には、朝倉氏という勢力でした。朝倉氏はもともと兵庫県の人で、足利家の家来だった斯波氏の、そのまた家来でした。斯波氏が足利家に対して武勲を立てたために斯波氏が越前国の守護大名となり、朝倉氏はそれにくっついて、福井にやってきました。その後、朝倉氏は足利氏の凋落のどさくさで、下剋上し斯波氏を追放したので、朝倉氏が越前国の支配者となったわけです。斯波氏は足利家の家来として忠実だったので、朝廷への租税の支払いを行っていましたが、朝倉氏はこれを拒否し、福井で収穫した租税を懐に入れて、私腹を肥やすことに成功しました。

ところが、朝倉氏が足利家より横領できたのは、全体からみれば、ごくわずがな租税だけでした。というのも、当時の法律では、仏閣寺院は手厚く保護されており、仏閣寺院に属する人、モノ、土地には、課税されなかったのです。これを利用し、福井の人々は、白山信仰の平泉寺にて僧侶になり、巨大な荘園の中で巨大な富を形成し、ぬくぬく生きることに成功していたのです。現代に例えるなら、朝倉家はお金のない市町村の自治会長で、平泉寺はそこに現れた巨大企業(しかもバランスシートをズルく調整して税金を支払っていない)という構図です。

これに反発したのは、朝倉氏、ではなく、平泉寺でこき使われていた労働者、つまり、小作農民たちです。平泉寺にて甘い汁を啜っていたのは僧侶たちで、実際に働く身分の農民たちは、奴隷のような扱いでした。当時の仏教の教えでは、僧侶だけが極楽浄土にいけることになっており、農民たちは田畑のために虫を殺し、動物を殺して食べなければいけなかったので、地獄にいく運命にありました。そのように教えられて、差別をされていたのです。

でも、この農民たちを救ったのは、浄土真宗でした。普通は「悪人でも極楽にいけるよ」という教えなのに対して、浄土真宗の親鸞の教えは、「悪人のほうが、より極楽にいけるよ」という「悪人」とされている側の心により響く教えでした。これが、福井の農民たちに、バチッとはまったのです。

浄土真宗は、福井の農民たちを決起させました。農民たちは武器を手に取り、自分たちを搾取する平泉寺に戦いを挑みました。平泉寺に立てこもる僧兵6000人に対して、農民たちは決死隊700人を選抜し、奇襲しました。奇襲は成功し、僧兵6000人は全滅。平泉寺に立てこもっていた女子供も含めて、全員皆殺しにしました。農民たちの戦いのすさまじさは、積年の恨みのすさまじさでもあったのです。

織田信長が、柴田勝家を引き連れて越前国に進出してきたのは、この頃です。

信長は、この状況をみて、「ああ、ダメだ」と思いました。福井にいる浄土真宗信徒たちは、征服者におとなしく従う奴隷ではなくなっていたからです。社会の秩序は、おとなしく言うことを聞く奴隷がいて成り立つ。そういう時代だったのです。奴隷を奴隷でなくした浄土真宗というのは、支配者にとっては、悪の教典だったのです。

「どうにもならない」と織田信長に思わせてしまったのが、福井の浄土真宗信徒たちの運の尽きでした。信長はまず朝倉氏を滅ぼし、城下町を灰燼にしました。ついで、越前国中の浄土真宗信徒たちを殺害してまわり、根絶やしにしました。指示をしたのは信長ですが、実働部隊は柴田勝家です。勝家は福井に入植すると、一番に始めなければならなかったのが、浄土真宗信徒を殺害してまわることでした。


浄土真宗信徒たちからすれば、無念以外の何物でもありません。せっかく奴隷身分から解放されたのに、いきなり他国からやってきた、何の関係もない人間に殺されたわけですから。そして、その主は、福井城に居座り、自分たちの国を、我が物顔で支配している。こんなことが、許されていいのでしょうか。

こう考えると、柴田勝家の家来の亡霊よりも、それに殺害された浄土真宗信徒のほうが、よっぽど恨みが強いのではないのでしょうか。




基本的には、念仏を唱えるときには、福井の場合は正信偈を使います。浄土真宗の開祖である親鸞が書いたものです。結局のところ、福井に根付いた浄土真宗は、柴田勝家の草刈り程度では消滅せず、現代にいたるまでずっと残り続けました。首なし亡霊武者が出現した当時においては、より活発に、信仰されていたことでしょう。

首なし亡霊武者にとっては、恐怖でしかないはずです。

自分たちが直接、手を下して殺害してきた連中が、どれだけ月日が流れたとしても、自分たちに向かってくるのですから。顔を合わせるたびに、「南無阿弥陀仏」と、得体のしれない連中が口走っていた呪文を、口々に低く唱えているわけですから。


「うわっ、やめろ! 来るなっ!」


亡霊武者たちは、平泉寺の僧兵たちを皆殺しにしたのと同じように、復讐に怒り狂った浄土真宗信徒に殺されると思ったでしょう。その恐怖から、住民を殺してしまったのです。亡霊武者たちにとってみれば、いわば、正当防衛です。




亡霊というものが存在するのだとしたら、念仏のきかない亡霊というものもまた、確かに存在するでしょう。

そして、念仏の効かない亡霊というのは、対処がとても難しいですよね。

九十九橋に現れた首なし亡霊武者のように、対処を間違えると、大変なことになりかねません。

九十九橋の亡霊でいえば、もう一つ、可愛らしいお話があります。亡霊を見たらすぐ死んでしまいますが、ただひとつ「私は柴田勝家の家来です」と言えば、死なずにすむそうです。それもそのはず。亡霊側は「柴田勝家の家来」と聞いて、ほっと胸を撫でおろしているはずです。


「な、なんだ、味方か。脅かすんじゃないよ。びっくりして刀を抜こうとしちゃったじゃないか」と。


実は念仏というのは、方便のひとつにすぎません。「極楽浄土にいけますよ」という、おまじないを、神妙にしただけのものです。それを聞かされて信じこむ人間もいれば、信じない人間もいますし、説教なんぞ聞きたくない人もいます。それらをも超えて、目の敵にしている人もいます。

さまざまな人間がいて、さまざなま歴史があり、その結果、さまざまな亡霊がいる。というわけなのです。





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