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彼女が、少年を見つめて、ふっと笑った。
笑っていないときの顔は、この年代の少女にありがちな、
どこか冷たさが漂う表情だったけれど、
笑った表情も、どこか冷たい。
顔の輪郭は風待さんと似ている、
とは思ったけれど、表情が違う。
風待さんが纏っている、
慈愛にあふれた穏やかさとは違う。
どこか幼くて、悪戯っぽい笑顔だった。

理由は、すぐにわかった。
彼女は、風待さんが作ってくれた、
タルトケーキを掴んでいた。
少年のほうを見つめながら、
タルトの先の部分に口を近づけて、小さな唇で噛んだ。


「それは、ぼくの……!」


少年は、少女目掛けて、駆け出した。
同時に、彼女も、少年から逃げだした。
ひまわりは、ひとが作ったものではないようで、
規則正しく並んでいるわけでなかった。
そのため、太いひまわりの茎が邪魔して、
なかなか前に進めない。
一方、少女のほうは、
このひまわり畑で遊ぶことに慣れているのか、
スイスイ進んでいる。
あっという間に、距離が開いてしまった。
ひまわり畑を駆け抜けた、
少女の長い髪の香りだけが、
そこに残されている。

少女は、少年との距離が開いたことを確認して、
また、見せつけるようにタルトをかじる。
さっき急いで食べたせいか、
唇の端にクリームがついている。
それに気づいて、親指の先でクリームをふき取って、
ん、と口の中に入れた。

少年のほうは、悲惨だった。
地面はぬかるんで靴がドロドロになっているし、
朝露で服がぐっしょり濡れている。


「なんなんだ、いったい……」


少年は、すぐに追いかけるのを諦めた。
ひまわり畑は、ずっと遠くまで続いている。
その向こう側には森があって、山がある。
これだけ開けた視界だけど、
家や道路などの人工物は、ここからは何も見えない。
もともと、自分が住んでいるところは、
ずいぶん田舎だということは知っていたけれど、
ここまで人の手が何も入っていない場所があるなんて、
聞いたことがない。


「追いかけてこないの……?」


遠くから、少女の声が聞こえた。
すごく綺麗な声だった。妖精の声かと思った。


「ああ。君には勝てそうにないよ」


「諦めるんだ。大人なんだね」


「えっ」


「大人には、私は捕まえられないよ」


少年が何かいう前に、少女はまた逃げた。
何をわけのわからないことを、と思いながら、
再び少年は、彼女を追いかけた。

ここは一体何だろう? 
夢を見ているのだろうか? 

でも、あの美少女が持っていたタルトは、
さっき目の前で風待さんが作っていたフルーツタルトだった。
おまけに、風待さんと似ている、あの美少女。


「大人には捕まえられない」


っていう言葉。
それは、さっきの会話を
暗示しているみたいじゃないか。

それから少年は、自分は大人なのか、
それとも子供なのか、自問自答した。答えはでなかった。
でも、少女を捕まえたいと思っている。
だったら子供のほうが都合がよかった。
大人には捕まえられないなら、
子供だったら捕まえられるじゃないか。


ひまわりをかき分けて進んでいると、
背丈の大きなひまわりが群生している場所に行き着いた。
さっきまでの小さなひまわりと、大きなひまわりの間に、
かなり広いスペースがあった。
そこに美少女がいて、背丈の大きなひまわりを見上げていた。


「来ないで」


少年に気が付くと、少女が小さく叫んだ。
少年は、悲しくなった。追いかけたことが、
もしかしたら、悪いことだったのか、と思った。
でもすぐに少女が、慌てて言い直した。


「きみの服が、汚れているから、ね」


少女が、ゆっくりと手招きした。
少年は、うなづいて、指示通り、ゆっくりと近づく。
太陽に当たっている場所は、地面がよく乾いている。
そこに少年を座らせると、彼女もすぐ隣にかがんだ。


「ちゃんと、きみの分もあるよ」


彼女は、肩にぶら下げたカバンを開けて、
ケーキの箱を取り出した。
すぐ近くにあった平らな石の上に箱を置くと、
箱はパカッと自動的に開いた。
逃げるときに、あれだけ激しく揺さぶっていたはずなのに、
箱の中のタルトは、さっき風待さんが作った通りの、
繊細さを保っていた。

それから少女は、カップも水筒も持っていた。
水筒から注がれたコーヒーは、
さっき風待くだもの店で漂っていた匂いだった。

少女に勧められるまま、
少年は黙ってタルトを齧って、コーヒーを啜った。
タルトのフルーツがびっくりするほど美味しかった。
フルーツタルトなんて、
今まで、何が美味しいのかよくわかってなかったけれど、
こんなに美味しいなんて知らなかった。
もう世界中にあるケーキやさんは、
フルーツタルトだけ作っていればいいと思った。



少年は、しばらく呆けていた。
綺麗な景色の中で、美味しいケーキを食べている。
おまけに、目が潰れそうなぐらいの美少女が隣にいる。
いったい自分は、何を悩んでいたのだろう?


「夢のようだな」


少年は、ふと呟いていた。
笑うかな、と思ったけれど、
隣の少女は、大真面目にうなづいていた。


「そうよ。ここは夢。
風待草が見せる、ひとときの夢よ」


「風待草って?」


「梅の木のことよ」


「梅の木……? 
風待さんの正体は、梅の木だったのか」


ふっ、と美少女は笑った。
少年の解釈には、何か誤解があるようだった。
でも少女はそれを修正しなかったし、
少年もそれ以上尋ねなかった。
すでに、生身の人間が理解できる理屈を超えている。
梅の木、と少女が発言したあたりから、
自分の口の中に、甘い匂いが残っているのに気が付いていた。
風待さんから渡された、あの梅ジュースだった。
理屈はわからないけれど、
風待さんが、この夢幻をみさせてくれているのは確実だった。
あるいは、こんな夢幻をみてしまうほど
梅ジュースが美味しすぎた、と言えるかもしれない。
なぜだろう。ふいに泣きだしたくなった。
泣きたいほど、美味しかった。
泣きたいほど、心地よい時間が流れた。


「君の名前を、聞いていいかな?」


「だめよ」


「そっか」


「諦めがいいんだね」


「なんか、聞いてもしょうがないな、って思って」


「そう」


「どうせ、もう会えないのだろう?」


「…………」


「でも、いいんだ。君に会えただけで。
ここで出会って、美味しいケーキ食べて、
コーヒー飲んで。素敵な思い出をありがとう。
ずっと忘れないから。
悲しいことがあっても、
君と、風待さんに出会えたことが、
心の支えになる気がするよ」


少女は、一瞬悲しい表情をしたけれど、またすぐに笑った。
今度は、風待さんが浮かべるような、
穏やかな笑顔だった。やっぱり、似ていた。
ふたりでタルトを綺麗に食べ終わった後、
彼女は立ち上がった。


「きみが大人になって、
また風待くだもの店が目の前に現れることがあったら、
風待はまた、君に梅をプレゼントすると思う。
その時は、梅ジュースか、梅酒か……
それはわからないけれど。
でもきみは、それをプレゼントされるから、
その時は、何も疑わずに、貰ってほしい。
そうしたら、またここに来ることができるから。
また、ここに来てほしい。
その時、ここにいるのは私じゃないかもしれないけれど。
でもきっと、きみにとって、
大事な何かが、また見つかると思うから」


「また見つかる? ということは、
今のぼくは、大事な何かを見つけたんだろうか?」


「ふふ。さあね」


いいながら、少年と距離をとった。
その足取りは、風のように、軽かった。


「あとひとつ、タルトが残ってるけど、これは私のね」


「えっ」


「このひとつは、特別にフルーツたっぷりなの。
すっごく美味しい部分。
でも、今度はもう捕まってあげないから。
そんな泥だらけの身体で、近寄らないでね」


べっ、と彼女は、舌を出してみせた。

少年は、タルトを追いかけたいのか、
少女を追いかけたいのか、よくわからない気持ちだった。
わからないまま、彼女の、
風のように揺れる背中を、追いかけた。



おわり