10
風待さんは、荒れる少年の唇を、手で遮った。
「わかったわかった。
きみは、大人の、汚れた恋愛がしたいわけね。
そういうひとには、コーヒーとタルト、あーげない。
あーあ。せっかく美味しいコーヒーとタルト、
作ったのになぁ。残念だなぁ」
「えっ、いや、その……」
「この、大人の硬派なオクチには、
こういう甘いものは、合わないでしょう?」
風待さんは、クスクス笑っている。
少年は、自分の負けを悟った。
こういう場合の勝ち負けは、
議論して決着をつけるものだと思っていた。
そして今の少年は、手負いの獣のようで、
誰にでも噛みつくようにできていた。
誰にも負けるつもりもなかった。
でも、風待さんには、
なんの議論も交わすことなく、あっさり負けてしまった。
別に、タルトがどうしても食べたいわけではなかった。
でも、目の前でそんなにキラキラとした笑顔を披露されると、
暗い気持ちが一気に萎えてしまう。
どうして、そんなどうでもいいことに拘っていたんだろう。
そんな気分にさせられてしまう。
少年が姿勢を正すと、風待さんは、また笑った。
「あれぇ? そんなにコーヒーとタルト、食べたかったの?」
「まぁ、そうです。なんだか、お腹もすいてきました」
「ふふ。やっぱり、まだまだ子供だよ。
ごめんだけど、君の口から、汚れた大人とか、
汚れた恋愛とか、出てくるたびに、
笑いを堪えるの必死だったよ」
風待さんが、おかしそうに笑いながら、
今度は、カウンターの下から、瓶を取り出してきた。
濃い黄金色をした液体が、その瓶の中に入っている。
ラベルには手書きで文字が書かれていたが、
少年側からは読めない。
その液体をグラスに注ぐと、風待さんは、
わざわざカウンターを迂回して、
少年の隣に来て、目の前に置いた。
「これは?」
「梅ジュース。
前にも、ちょっと勧めたことがあるんだけど、
飲んでみてよ。今なら、美味しく飲めるはずだよ」
「ふぅん……?」
今なら、の部分に、なんとなく引っ掛かりを覚えた。
以前に比べて、熟成が進んだ、ということだろうか。
そんな短期間で、梅ジュースは美味しくなるものなのだろうか?
……いや確かに。
改めてよく見てみると、違う。
風待さんのくれたグラスの色は、濃い黄金色をしている。
少年が、はるか昔に飲んだ梅ジュースは、
薄い黄緑色をしていた。
匂いも、あまりなかった。
記憶の中の梅ジュースは、舌に酸味がピリピリとくる感じで、
かと思えば、喉に砂糖の甘さが纏わりついた。
そんな記憶の中の梅ジュースとは、色が明らかに違う。
匂いも違う。
近くで呼吸をしているだけで、
とてもいい匂いが身体の中に入ってくる。
このグラスに入っている液体の高貴さは、
いったいなんだろう。
たかが梅ジュースのくせに、
神々しささえ感じる。
グラスの中に黄金が溶けているようだった。
これは、いったいなんなのか。
「熟成、しているのでしょうか。
ぼくが知っている梅ジュースとは、
色も香りも違いますね」
「別に、普通だよ。普通に作っただけ」
「そうなんですか……?」
「ただ、使った梅には、少しこだわったかな。
この梅ジュースには、福井梅を使ったの。
福井梅は、かつては『宝石』と呼ばれたこともある、
とても綺麗な梅なんだよ。
その梅を、木の上で黄色く熟させて、
香りが最高になったところで、収穫して漬けるの。
こんなふうに、いい梅をいい状態で使ってあげることで、
強い香りと味になるのよ」
風待さんの声が、すっと、心の中に入ってくる。
この時の、風待さんの声の調子は、
大事なことを言うときの、風待さんのリズムだった。
つい、聞き入ってしまった。
「さあ、飲んでみて」
今度は、優しいリズムだった。
暖かい毛布にくるまったときのような、
抵抗しがたい、心地よさがあった。
少年は、言われるまま、口をつけた。
風が吹いた。
なぜ店内で風が吹くのだろう、
と不思議に思うのもつかの間、
そこは『風待くだもの店』の店内でもなくなった。
白い霧に包まれて、隣にいた風待さんも消え失せた。
その霧に、突然、光が差し込んだ。
霧がゆっくりと晴れていく。
少年の足元が、粘土質な土に変わった。
土は、少年の体重をうけて、ぬかるんだ。靴が汚れた。
少年は、朝露で濡れる、ひまわり畑の中に立っていた。
でも、少年の目を釘付けにしていたのは、
あたり一面のひまわりではなかった。
白いパナマ帽に、白いワンピース姿の美少女。
風待さんを、少年と同じ年齢ぐらいに
幼くしたような容姿であるともいえるし、
違うともいえる。
髪は背中の真ん中までありそうな黒々とした髪の毛で、
対照的に肌が透き通るほどに白い。
その彼女の肌が朝日を受けて、
眩しいぐらいに輝いているようだった。
十本程度のひまわりを隔てて、彼女は立っている。
柔らかい朝日と優しい風を、身体に纏って。