岩倉さんに交際を申し込んだその日。
彼女と別れてから駅前を歩いていると、
風待くだもの店のシャッターが開いているのを見つけた。

あれだけしつこく調べたのに発見できなかった、
風待くだもの店が、今は開いている。

運命的なものを感じた、
というのは、さすがに大げさかもしれない。
そこまで強い何かを感じたわけではないけれど、
少年は、その店に引き寄せられた。

お店の中には、当たり前のように、お姉さんがいた。
美人に見つめられて、少年はやはり俯いてしまう。


「あの……この間は、ありがとうございました。
あの果物、すごく美味しかったそうです」


「そう。先生には、喜んでもらえた?」


「いえ、あの、それが……」


言葉に詰まりながらも、なんとか事の顛末を伝えた。
美味しい果物なのに興味も示さず、
結局食べられずじまいになった高橋先生の因果応報を伝えたときは、
お姉さんは、残念ね、と言いながらも、声を出して笑ってみせた。
澄んだ笑顔だった。
その笑顔を見せられたときは、心が洗われるようだった。
話題になってくれた高橋先生に、感謝の気持ちを伝えたい気分だった。

それから彼女は、少年をカウンターに案内した。
彼女は、少年が、なにか果物を求めて、
この店に来たわけではないということを、
すぐに察してくれたらしい。


「いつも、おひとりで、果物屋さんをやってるんですか?」


カウンターに座った少年と、
そのカウンター越しに作業を始めた彼女は、
どちらともなく、話をはじめた。


「そうね。寂しいけど、
こうしてお客さんがいるときは、すごく嬉しいよ。
誰にも気兼ねなく、たくさんお話できるからね」


「でも、それだと、あの……
お姉さんお一人でお店をするのって、大変ではないですか?」


ん、としばらくお姉さんは考えて、


「お姉さん、っていうのは、言いにくいでしょう? 
私のことは、風待、と呼んでね。
お店に来てくれるみんなは、そう呼んでるから」


「風待さん、ですか。
お店の名前を見てからずっと思ってたんですけど、
このあたりでは聞いたことない、珍しい苗字ですよね」


風待さんは、


「君は、見た目はウブな少年なのに、
お年寄りみたいなことを聞くのね」


と言って、少年を笑った。
笑って、別の話題に移った。
そのため、風待、というのは、
このお姉さんの名前なのかどうかまでは、聞きそびれた。

風待さんの独演がしばらく続いた。
店は不規則で営業しているという話から、
地域の話になり、社会全体の話になり、
それを取り巻く農業の話になった。
その間に差し出されたグリーンスムージーを、
少年は風待さんの声を聴きながら舐めた。
確かに美味しいことは美味しいけれど、
とりたてて騒ぐようなものでもなかった。
担任の先生があまりにも褒めるので、


風待さんのスムージーは、どれだけ美味しいのだろう、


と期待したけれど、
最初に風待くだもの店に入ったときのような感動はなかった。
風待さんの声が、だんだん念仏のように感じてきていた。
どの話も、少年の食指を動かすような話ではない。
風待さんは、しかし、軽やかに話を続けている。
このスムージーも、飲めば飲むほど、
普通のスムージーとの違いがわからなくなる。


「そうだ。君も飲んでみる?」


いきなり話をふられて、はっと顔を上げた。


「何をですか?」


「梅のジュース。私が作ったのよ。
美味しいよ? どう?」


話をふってきたのは、いきなりだったけれど、
話の流れ的には、別に唐突でもない。
梅農家は儲からなくて、みんな辞めてしまった、
梅の木を伐ってしまった、という話から、
梅ジュースの話になっていた。


梅ジュース……。


少年の顔は、いまいち晴れなかった。
梅なんて、年寄りの食べるものだと思っている。
いちおう、飲んだことはある。
でも、飲みたいとまでは思ったことはない。
酸っぱいだけのジュースだったから。


「……いえ、大丈夫です。もうお腹いっぱいなので」


少年にも、気遣いはできる。
必要のないものを勧められたときにでも、
笑顔を作って断ることが礼儀だと知っている。
風待さんに礼儀を尽くすために、
唇を笑わせた顔を、彼女に見せた。

風待さんは、一度、ふうっ、と小さく息を吐いた後、
正面から少年をじっと見つめて、澄んだ笑顔を見せた。


「ねえ君、今、幸せ?」


「えっ……なぜです?」


「なんとなく」


風待さんは、相変わらず笑っている。
何を思って、そんなことを聞いてきたのかまでは、
よくわからない。
いや、本当に、なんとなく、
訊きたかっただけなのかもしれない。


「一応、幸せです」


とは、答えてみた。
自分の気持ちが今幸福なのか不幸なのかなんて、
考えもしなかった。
もしかすると、幸福とか不幸とか、
真面目に考えたことなんて、今までなかったのかもしれない。

風待さんは、少年がどっちであろうと、かまわないようだった。


「幸せという字と、辛いという字。
一本ないだけなのに、意味が真逆なんだよね。
なぜか知ってる? 
辛いという字は、磔にされ、
腕を切り落とされた人を模した字。
腕を切り落とされちゃったら、それは辛いよね。
そして幸せという字は、磔にされながら、
五体満足で生き残ってるという字。
刑罰におびえていたけれど、
結局刑罰が下ることはなくて、
ほっとしている図。
これが幸せの語源なんだよ。
つまり、人間は、
自分の力が及ばないことで、
幸せになったり、不幸になったりするの。
人間の幸せとか、不幸せを決めるのは、
結局のところ、その人のまわりの環境なのよ」


「それは、つまり……自分ではどうにもならないから、
幸せになるのも、不幸になるのも、運任せ、ってことですか」


「ううん。逆よ。
まわりの環境をよくすることが、
自分自身のためになる、ってことが言いたいの。
そのためには、自分の周りのひとたちに、
もっと関心をもつことから始めると、
いいかもしれないね。
君は、自分にも他人にも、興味がない人みたいだからね」


さっきまでの、
よくわからない話をしていた時の軽やかな口調から一転して、
落ち着いたトーンで、ゆっくり語った風待さん。
教会での神父さんに懺悔を聞いてもらっているときって、
もしかすると、こういう気持ちになるのかもしれない。
このときの風待さんの言葉が、
妙に心に張り付いてくるのを感じていた。


 

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